最近イランのペルセポリスという遺跡を訪れたのだが、驚いたのはそこが繁栄していた年代。紀元前6世紀といえば日本はようやく稲作が始まったばかりの縄文時代後期にあたる。そのような時代に、訪れる者を圧倒させる巨大な石組の建造物や見事な彫刻が隆盛を誇り、何万人もの兵士や従者らが警備する都市型の王権社会が成立していたのである。
南アフリカ共和国の北方、リンポポ川付近にかつて栄えたマプングブエ王国もまたそうした都市型の文明だった。といっても、アフリカは一部の例外を除いて日本の古代と同様に栄えたのは「石の文化」ではなく「木の文化」。長い時間の流れのなかで木は朽ちてしまい痕跡があまり残らない。だから訪れたマプングブエも住居などが遺されているわけではない。乾燥したサバンナの中に長さ300メートル、高さ30メートルほどの船型に隆起した丘陵が認められるだけだ。しかしこの遺跡はあの有名なグレート・ジンバブエ遺跡を築いたショナ王国の前身にあたる民族集団によるものと考えられている。王国の最盛期は11世紀から13世紀ごろだが、6世紀にはすでに居住が始まっていた。
この王国のユニークな点は、船型の丘陵上には長老や指導者などの支配層が、丘陵の周囲を取り巻くサバンナには庶民が暮らしていたこと。飲料水なども下から運ばせていたらしく、はっきりと階層が分かれていた。マプングブエとは「雨をもたらす丘」の意。おそらく丘陵で雨乞いの儀式が行われていたに違いない。そしてその呪力を支配層は庶民に示すことによって国の統治に利用したのだと想像される。こうした「中心となる特別な力」がないと国はうまくまとまらない。現代でもその力は、国によって「経済」だったり、「首領への忠誠心」だったり、「武力」だったり。
しかし「盛者必衰の理をあらわす」という諺のとおり、永遠に続く繁栄などあり得ない。マプングブエも旱魃のため、水害のため等いろいろ説はあるが、都としての機能はせいぜい数百年であった。その後ずっと忘れられていたが、1932年に地元の白人農家によって丘陵上で金製品が発見されたことにより蘇った。その「盛者」の証である金製品、なかでも王権をあらわしたといわれるサイの像は美しい造形であるがゆえに、逆にもの哀しさを誘うのである。
写真・文 船尾 修さん
船尾修さん 1960年神戸生まれ。写真家。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、いつのまにか写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。第9回さがみはら写真新人賞受賞。第25回林忠彦賞受賞。第16回さがみはら写真賞受賞。著書に「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から~狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵」「世界のともだち⑭南アフリカ共和国」「カミサマホトケサマ」「フィリピン残留日本人」など多数。元大分県立芸術文化短大非常勤講師。大分県杵築市在住。 公式ウェブサイト http://www.funaoosamu.com/