さて、ケニア・ラム島からタンザニア・ザンジバル島までのスワヒリ海岸の航海の後半。前半のケニア部分では、海岸沿いの漁村や港町に停泊を繰り返しながら南下してきたのですが、ケニアを出国してからは海を横切り、タンザニアの島嶼部へと向かいます。まず目指すは北ペンバ島。今回のルートで一番の難所です。いよいよ島から島へのダウ船航海も本格的になってきました。
ウングジャ島(ザンジバル本島)の北にあるペンバ島は、かつてクローブの一大生産地として栄えた島です。島の人々のルーツはシラジと呼ばれる人々で、太鼓のペルシアのシーラーズに出自を持つ人々の血をひくとされていいます。このシラジの人々と、大陸に出自を持つアフリカ系の人々、スルタン統治時代のオマーン人をはじめとする中東系の入植者の子孫、様々な人々の交流と文化が積み重なって生まれた『スワヒリの世界』に満ち溢れた、のどかな島です。何よりもペンバ・ブルーの海は絶品の美しさを誇ります。
『スワヒリ』という単語には、「海岸、岸辺」などの意味があります。
ソマリア南部からケニア、タンザニア、モザンビーク北部までのアフリカ大陸東部の海岸の事を指しています。このアフリカ大陸の東海岸は、アラブとアフリカが複雑に融合した、世界史的に見てもとても独特な文化が発展してきた土地でもあります。この土着文化と外来文化の交差点の末に生まれたのが『スワヒリ世界』。ケニア・タンザニアを含めた東アフリカは人類発祥の地といわれていますが、文字に書かれた歴史上に登場するのは、紀元1世紀頃に書かれた「エリュトラー海案内記」で、東アフリカ海岸はアザニア(Azania)として触れられています。季節風(モンスーン)を利用してアラブ、ペルシャ等から、商人がダウ船を利用した貿易によってこのアフリカ東海岸を訪れ、ザンジバルやキルワなどの都市国家を築きました。後にオマーンのブー・サイード王家が王宮をザンジバルのストーンタウンに移し、貿易を直接管理し、このスワヒリ海岸一帯を支配下に治めます。
1964年に大陸側のタンガニーカとザンジバルが連合国家としてタンザニアになったわけですが、それまでは内陸のアフリカがザンジバルにとって「外国」でした。今回の旅路のゴールにふさわしい、『スワヒリ世界』の真髄ともいえるのが、最後に向かうザンジバル・ウングジャ島です。
ヌングウィ・ビーチでのんびりした後は、最終目的地、ウングジャ島の中心ストーンタウンへと向かいます。古いアラブ風の石造りの家が迷路のように建ち並ぶ旧市街は「ストーンタウン」(2000年世界遺産登録)とよばれ、白い壁に真鍮製の飾りびょうや精巧な彫刻を施された扉が500以上も残り、今も街の人々の普段の生活の場として存在しています。スルタンが使用していた宮殿やかつてポルトガルの侵攻に立ち向かったオールド砦など、見所も多い場所です。ですが最大の魅力は、食事や建築、音楽、人々の佇まい、日常の暮らしの細部に至るまですべてが『スワヒリ世界』そのものという事です。ちょっとした街角を曲がった時の景色や、ふと立ち寄った食堂で食べるビリヤ二、垣間見える人々の日常生活、全てにこの島の2000年の歴史が凝縮されています。
ラクダを「砂漠の船」と呼ぶのに対しダウ船は「海のラクダ」と呼ばれています。紀元1世紀頃のギリシア文献『エリュトゥラー海案内記』にはすでにその名が登場し、アラビア語で「船」そのものを意味しています。2000年の間、この『ダウ船』こそが、インド洋世界の交易、文化交流を担ってきました。季節風(モンスーン)を利用し、香辛料、木材、象牙、金、穀物、奴隷などをアラブやインドへ、代わりに綿製品や茶、銅製品などをアフリカへと持ち込みました。
今回利用した『ELSA BELLAH(イザベラ)号』は、ダウの中でも伝統的にラム島で伝えられていた製法の『ラム・スタイル』。船尾ですっぱりと切れ落ちているのが特徴で、近海航海用で「ジャハージ」といわれる中型のものです。遠い所ではモルジブや、インド南西岸まで航海するものもあるそうなので、いつかは…と夢が広がります。
陽気なラム島の船乗り連中と一緒に作り上げた、スワヒリの海の船旅。また来年の冬に季節風『カシカジ』の吹く季節に予定しています。是非、スワヒリの海の旅を体感してみてください。
■インド洋・スワヒリ・コースト航海~ダウ船で巡る島旅~ 14日間
2020年2月7日(金)出発 748,000円
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生野