フェニックス・ロジスティックス:柏田雄一さん

1931年大阪生まれ。
戦後、大阪外語大を卒業し、58年にヤマトシャツ(現ヤマトインターナショナル)に就職。
外語大を出ている事を理由に、同社の輸出部門の一切を任される。
ある時、ウガンダでなぜか自社の製品が売れている事を知り、60年、英国領時代のウガンダに渡航。
英国から独立間もない65年に、ウガンダ新政府からの要望もあり、日本の商社との合弁会社、ユナイテッド・ガーメント・インダストリー(略称ユージル/UGIL)を設立する。
柏田さんは、工場長としてウガンダに赴任。
文化も風習もまるで異なる地で、ウガンダ人と真摯に向き合い、深く付き合うからこそ、日本流の時間厳守、整理整頓などを徹底し、社員を教育し、経営を軌道に乗せます。
ただ、政変真っ只中のウガンダで、当時のアミン政権の崩壊を察し、79年に家族を連れて、ケニアへ脱出。数週間後、首都のカンパラが陥落。
工場は一切が破壊され略奪されていた。
そんな中、カンパラの自宅は無傷。
暴徒化した兵士に対して、近隣住民が、身を挺してそれを守り通してくれたためでした。
「また戻ってきて欲しい」その強い思いに感激し、新政府の後押しもあり、80年1月に工場を復興。
すぐに経営を軌道に乗せるも、再びの政変により完全撤退を余儀なくされます。その後工場は国営化され、徐々に衰退し、92年に閉鎖。
99年、ムセベニ大統領(現職)の強い直訴を受けて、ヤマトインターナショナル(当時副社長)を退職し、00年に個人でも出資し、フェニックス・ロジスティックス社を設立。
オーガニックコットンを主軸に、「メード・イン・ウガンダ」を展開し、ウガンダに繊維産業を根付かせるべく、大統領(政府)と一丸になって取り組んできた。
しかし、08年を境に、ムセベニ大統領の態度が一変。
推測の域を出ないものの、06年に発見された油田により、資源国としての舵取りが行われたため?
国という後ろ盾を失い、再び苦境に立たされている柏田さんが、それでも、今後もウガンダという国と関わり続けていくであろう道筋に光が当たる事を節に願って止みません。
by 荒木
出典『日経ビジネスon line』