高達潔のソウェトウオッチング46 ソウェト・ツアー事情 その12

広大な墓地、アバロン

元々ソウェト観光は美しい景色を見るものではなく、アパルトヘイトの歴史・遺産や、ソウェトに暮らす人々を見るのが主ですが、その途中で、外国など外から来た人達にとっては、さらに非日常の景色を見ることもあります。
その一つが、墓地。アバロンという墓地は、ソウェトの端っこにある、広大な墓地です。この墓地に立ち寄るツアーはほとんどないと思いますが、ここには、アパルトヘイト時代に、反アパルトヘイト活動を率いた人達や、ソウェト蜂起の犠牲者が多く眠っており、特にソウェト蜂起の犠牲者には慰霊碑も建てられています。この墓地に週末行くと、お葬式の大渋滞がありますが、平日はいたって静かな所です。反アパルトヘイト運動と女性運動を率いたヘレン・ジョセフ(白人ですがソウェトの墓地に眠っています)、リリアン・ンゴイ(ANC女性リーグ初代代表)のお墓を訪ねることもできますが、現在、写真撮影は禁止とのことです。

スクウォッターキャンプの一つ、クリップタウン

もう一つ、旅行で来られる(その経済力がある)人達にとっては非日常(そうではない人もいるかも知れませんが)と思われる場所が、スクウォッターキャンプ(不法居住地)です。ソウェトをスラムと思っている人がいますが、ソウェトは、元々市営住宅のいわば普通の住宅地で、スクウォッターキャンプはまさにイメージ通りのスラムで、貧困者が多い地区です。
ソウェトには、いくつかのスクウォッターキャンプがありますが、その中で、最も観光客の目に触れている地区は、クリップタウンでしょう。現ウォルター・シスル・スクエアから、線路を挟んで反対側のスクウォッターキャンプが、通常クリップタウンと呼ばれています。地図を見ると、フリーダム・チャーター・スクウェアとか、ウィーニーキャンプとか書かれていることもあります。
クリップタウンとは、アフリカーンスで「石の町」という意味。1920年代、大きな石がゴロゴロした土地に、インド人、カラード、中国人などの住宅地ができ、黒人居住区ソウェトに隣接していたため、元の住人は他の地区に移住していき、その空家に不法居住して、周りに掘立小屋が建って拡大した地区です。クリップスプリットという川の近くまで家が迫っている場所もあり、この間の夏の大雨で流された家、浸水した家もありました。

クリップタウンの横を通るメトロ
クリップタウンの横を通るメトロ

危険ではあるが普通の人達が暮らしている

通称クリップタウンと言われる地区は二つの橋の間に46,000人が住んでいるといわれていますが、さらにその橋の先には、チキンファームや、別のスクウォッターキャンプもあります。この橋の一つをソウェト観光のバスが通り、橋の上から、お客さんに貧困地区の景観を見せているところをよく見かけます。時には、バスを降りて、入口の所で写真を撮り、近所の子供たちにお金や飴などをせびられている人達もいます。こういう姿はここだけでなく、世界中の観光客が立ち寄る貧困者が多い地区で見られる光景でしょう。

クリップタウンに住む知り合いの女の子
クリップタウンに住む知り合いの女の子

この地区は貧困者が多いことと、人口密度がかなり高く、犯罪者になっていく若者が多数おります。そのため、ここは危険な地区だと思われていますが、中に入ってみると、確かに貧しいが、悪党でもない、普通の人達が暮らしています。但し、頼れる知り合いがいないと危険なことは確かで、特に夜間は真っ暗な場所が多く(基本的に電化されていませんから)、黒人であってもむやみに立ち入ることはしません。
私のソウェト・ツアーでは、お客様によっては、知り合いの家(掘立小屋です)にお連れすることもありますし、スタディーツアー(の様な感じのツアー)では、この地区で活動するNPO、保育園などを訪問することもあります(もちろん日中の明るい時間帯ですよ)。と、書きましたが、ここは旅行業としてではなく、個人的な理由で知り合いの家に行くことがちょくちょくあり、私にとっては凄く身近なスクウォッターキャンプで、今は簡単に言い表すのが難しい場所でもあります。

高達潔のソウェトウオッチング45 ソウェト・ツアー事情 その11

歴史あるフリーダム・スクウェア

ソウェトと、旧カラード・タウンシップのエルドラドパークとの間のクリップタウンに、ウォルター・シスル・スクウェアという広場があります。ここはソウェトの淵(外側)にあたり、アパルトヘイト時代でも、黒人、白人、インド人などが入れる場所でした。
そのため、1955年6月26日、アフリカ民族会議(ANC)を中心として、南アフリカ・インド人会議、南アフリカ・カラード人民機構、民主主義者会議(ほとんどが白人)、南アフリカ労働組合会議の各団体代表者3,000人が南アフリカ中から集まり、人民会議でフリーダム・チャーター(自由憲章)を採択した場所として、フリーダム・スクウェアと呼ばれていました。(泊まりがけの集会でしたが、翌27日に警察に解散させられたそうです)。

政府が大改造してウォルター・シスル・スクウェアに

ウォルター・シスル・スクウェア
ウォルター・シスル・スクウェア

私が2001年にソウェトに入り始めたころのフリーダム・スクウェアはただの空き地で、隣接した商店街クリップタウンのためのタクシーが集まっているという感じでした。横を通る時に、ツアーガイドから「この場所でフリーダム・チャーター云々」という話を聞かされる程度でしたが、2004年の選挙の前に、政府が大金を投じ、この広場を大改造しました。
ゼネコンにコンクリートで固めさせ、グレート・ジンバブウェ遺跡にあるコニカルタワーを模したモニュメント(その中に自由憲章が書かれている)、自由憲章の10カ条を表すつもりの10本のピラー(言われないと意味は分らないが、言われても大金を投じた意味が理解できない)、コミュニティー・ホール、4星ホテル(開業当時はホリデイ・イン・ソウェトで、今はソウェト・ホテル)などを建て、店舗スペースを造りました。
10本のピラー
10本のピラー

路上販売していたおばちゃんたちは追い出され、販売場所を作って利用料を徴収するようにし、観光客が来ると目を伏せて仕事をしているフリをして案内したがらない職員のいる観光案内所もできました。そして、その名称は、ANC長老達のご機嫌取りの様に、ANCのリーダーであった故ウォルター・シスル氏に捧げる広場と変えられたのです。
線路を渡った所にあるスクウォッター・キャンプのNPOで活動しているメンバーは、大手ゼネコンが外から労働者を連れて来て建設しているのを横目で見て、これはディベロップメント(開発)ではなく、単なるビルディング(建設)だ、地域には何ももたらさないと不満を言っていたのを今も思い出します。

時間があれば自由憲章関係の博物館へ

観光案内所の愛想の無さもあり、時間にゆとりがないソウェト・ツアーではわざわざ立ち寄る所とも思えず、ここにある自由憲章関係の博物館も以前は素通りしていました。しかし、こちらに来て何年も経ってアパルトヘイトの歴史も以前よりは知ったせいか、昨年立ち寄ってみたら、この博物館も中々捨てたものではないと見直してしまい、最近では時間があればソウェト・ツアーの途中で立ち寄るようにしています。
自由憲章は、アパルトヘイト政策に抵抗して、全人種平等の民主主義(リベラリストからの共産主義的という批判などもあったが)をうたい、そのために当時の政府はそのメンバーの中からネルソン・マンデラ、ウォルター・シスルを含む156人を逮捕して、反逆罪で告発しました。この自由憲章が、ANCの基本理念になり、今のこの国の民主主義憲法の元となったのです。(反逆裁判に関しては、ヨハネスブルグのニュータウンにあるミュージアム・アフリカに展示があります。アパルトヘイト博物館にも自由憲章の展示はありますが、あまり詳しくはありません)。

ソウェト(Soweto)
南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグ市にある地域。地名の由来は“South Western Townships”(南西居住地区の短縮形)。アパルトヘイト政策によって迫害されたアフリカ系住民の居住区として知られる。観光では、ソウェト蜂起の際に警官に射殺されたヘクター・ピーターソンや反アパルトヘイト運動を率いたネルソン・マンデラの記念館が有名。

高達潔のソウェトウオッチング44 ソウェト・ツアー事情 その10

ホワイト・シティーからソウェタン憩いの場所、トコザ・パークへ

ジャバブ地区にある蒲鉾型の家は3軒長屋ですが、その壁が白いことから、その家がある辺りは通称ホワイト・シティーと呼ばれています。ホワイト・シティーは不良が多いので危ない、あの地区は他のソウェトとは違うから気をつけろと言われていましたが、私は不良ですと言う看板をぶら下げている人がいる訳でもなく、他の地区と雰囲気が違う訳でもなく、家の形がちょっと変わっているな~という程度の違いです。

路上八百屋のおばちゃん達
路上八百屋のおばちゃん達

そのホワイト・シティーを抜けると、トコザ・パークに出ます。トコザ・パークは道路によって幾つかに分れており、クリケット場があるエルカスタジアムは、ワールドカップの時のファンパークになりました。トコザ・パークというと、オールド・ポッチェフストローム沿いのモロカ警察署の並びで、緑が多く、池と小川があり、週末にはブライ(南アフリカのバーベキュー)をする人達がいたり、結婚式の記念撮影に来たり、時々コンサートがあったりする、ソウェタンの憩いの場所です。ワールドカップ時にはその公園にも大型のテレビが置かれ、FIFAのファンパークとは別にタウンシップテレビというワールドカップ無料観戦場になっていましたので、ネルソン・マンデラ元大統領の写真があるその公園の写真を新聞などで見た人がいるかも知れませんね。ちなみに私は、あるテレビ局の仕事で極寒の中にバファナバファナ対ウルグアイの試合を、そこのテレビで観戦しました。

ソウェトで最も有名な場所の一つレジナ・ムンディ教会

レジナ・ムンディ教会周辺
レジナ・ムンディ教会周辺

トコザ・パークの隣には、ソウェトで最大のカソリック教会、レジナ・ムンディ教会が建っています。レジナ・ムンディとは、ラテン語で世界の女神という意味だとか。この教会は6,000人がミサに出席できるという大きな教会で、ポーランド大統領夫人から寄付されたステンドグラスがあり、ブラック・マドンナの絵(アパルトヘイト時代に、オッペンハイマー家の当主ハリー・オッペンハイマーの依頼で画家が描いた、黒人のマリアとキリストの絵で、下の方の絵はソウェトを表している)が有名です。
アパルトヘイト時には、ソウェト蜂起の犠牲者の葬式など何回も合同葬儀が行われ、反アパルトヘイト活動家がミサを利用して集会をやったりしていましたので、反アパルトヘイト集会を阻止する為に、警察の襲撃を受けた事もあります。この教会内では虐殺は行われませんでしたが、警官隊が解散を要求した時に、銃座でたたき割られたテーブルや、天井の数か所に残された、威嚇射撃の弾の後を見る事ができます。
この教会でのデスモンド・ツツ大司教のお祈りや、反アパルトヘイト運動のリーダー、ドクター・モタナの演説などの映像、ソウェト蜂起時に学生たちが逃げ込んだ時の写真、ソウェト蜂起追悼記念式典を反アパルトヘイト集会になるという事で警察が襲撃した時の映像・写真は、アパルトヘイト博物館やヘクター・ピーターソン博物館などで見る事もでき、ソウェトで最も有名な場所のひとつです。教会の2階には、1950年代~ソウェト蜂起の時代~アパルトヘイト後の写真のエキジビションがあり、それも見所の一つです。
元々キリスト教会は誰でも受け入れる所で、カソリック信者ではない単なる観光客、異教徒であっても入る事ができます(但し、ミサや何かイベントをやっている時には関係者以外は入れません)。教会なので入場料は無料ですが、かつては見学後、神父さんがいる建物の献金箱に献金を入れていました。教会の人が案内してくれた時には、その献金の事も教えてくれますが、案内者が誰もいない時や他の人の相手をしている時でも自主的に献金していたのですが、ワールドカップの影響で観光客が増えたせいか、最近では教会内に入った所に係の人がいて、博物館で入場料を取られるように献金をお願いされ、世知辛くなったとも言えます。しかし、ツアーガイドとしてはお客さんを連れて行きやすくもなるので、有難いとも言えます。

ソウェト(Soweto)
南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグ市にある地域。地名の由来は“South Western Townships”(南西居住地区の短縮形)。アパルトヘイト政策によって迫害されたアフリカ系住民の居住区として知られる。観光では、ソウェト蜂起の際に警官に射殺されたヘクター・ピーターソンや反アパルトヘイト運動を率いたネルソン・マンデラの記念館が有名。