ナイロビダイアリー no.24 ケニアの新聞

ケニア人はかなり熱心に新聞を読んでいる。遠く離れた日本を取り上げている記事も多い。今回は、日本のニュースを中心に、ケニア人が注目する記事をご紹介します。

FIFAワールドカップ

今年一番の話題は、なんと言ってもFIFAワールドカップだろう。サッカーが大人気のケニアでは、ワールドカップの時期になると街頭に大きなスクリーンが設置される。仕事帰りに立ち見する人が大勢集まって、得点のチャンスにはナイロビの街に地響きのような歓声が響き渡る。
サッカーに疎い私よりは、日本代表チームの選手名を知っている人も多く、中にはJリーグのチームや、各チームの選手の名前を言える人までいる。日本代表の誰々はどこの国のどのチームに所属している、なんて私に教えてくれるのだからすごい。
ベルギー対日本戦の後は、日本の健闘を称えてくれる人も多くいた。試合当日は、日本大使館がホールを提供してくれて、テレビを見ながら応援する機会まであった。残念ながら参加できなかったが…。

ケニアのニュース

7月下旬頃の新聞には、ヌーの川渡りの話題が頻繁に登場する。今年は雨季に例年以上の雨が降り続いたため、ヌーの川渡りが昨年に比べて1カ月以上遅くなったそうだ。最近になって、ようやくヌーたちがマサイ・マラへやってくるようになったとある。
残念ながら一般的なケニア人は、料金が高いのでマサイ・マラ観光は難しいが、それでもヌーの川渡りは、毎年注目される記事の一つになっている。日本でいえば桜の開花状況みたいなものではないかと、個人的には感じている。
この「DODO WORLD NEWS」が発行される9月中旬頃には、ヌーの川渡りも終盤に差し掛かっている頃だろう。

ヌーの川渡りが遅れているニュース
ヌーの川渡りが遅れているニュース

日本のニュース

世界的な話題となるニュースだけでなく、日本国内の問題も新聞記事になっていることが多く、私も時として思いがけない質問を受ける。最近では日本の猛暑について、「死者が何人も出るほど日本は暑いのか」と聞かれ、返事に窮してしまった。
西日本の豪雨で多くの方が亡くなったこともニュースになっていた。ケニアでも、今年の雨季は大雨だったので、多くの場所で冠水があった。「インフラが整っている日本で洪水になるような雨がケニアで降ったら、一体どうなっちゃうんだろう」なんて言ってた人もいる。

日本の猛暑についても詳しく説明
日本の猛暑についても詳しく説明

極東の日本のことなので、新聞でも小さな扱いのことが多いが、隅々まで熱心に読んでいるのだろう。日本人だとわかると、時事的な話題を振ってくる人も少なからずいる。昨年、眞子様の婚約内定の発表があったときには、「日本のプリンセスが結婚されるんですってね。おめでとう」と言われた。恥ずかしながらプリンセスと言われて、一瞬ではあるが、誰のことを言っているんだ?と思ってしまった。秋篠宮ご夫婦の長女である眞子様は、英語で表すとプリンセスになるのか、と思い直し、「よく知ってるね。どこで知ったの?」と訊いてみると、今朝の新聞に書かれていたそうだ。後で調べてみると、端っこの小さいスペースに、確かに眞子様の婚約内定の記事が載っていた。
日本のお年寄りのボディビルダーまで!
日本のお年寄りのボディビルダーまで!

ケニアにいるからといって日本のニュースを見ていないと、ケニア人に「日本人のくせにそんなことも知らないのか」と言われてしまいそうな気がして、日本にいる時以上に日本のことを頻繁に調べる癖がついてしまった。

Africa Deep!! 67 かつての辺境といつでも「つながる」現代という時代の不思議

フェイスブック、ツイッター、インスタグラム…いわゆるSNSは最近では多くの人たちにとってもはや日常生活になくてはならない必須のツールとなっている。
数年前、見知らぬ人からフェイスブック上で「友達申請」が来た。友人・知人以外は僕は基本的に「承認」しないことにしている。それでいつものように放っておいたら、何日か後にメッセージが届いた。「はい、オサム! 僕のことを覚えているかい?」という短文だった。怪しい…。こういうメッセージもわりとたくさん来る。応答しているうちに怪しいサイトへ誘導されるという手口だ。それで無視していたら、「あのときの旅は僕にとっても忘れられないものだったよ。今でもモロンダバの村で家族と暮らしています」というメッセージが続けて届いた。
モロンダバという村の名前は憶えている。このときになって初めてその人のアイコンをまじまじと見た。真っ青な空をバックに中年の黒人が写っている。名前は、ニリコとある。ニリコ、ニリコ…。「あっ!」と僕は思わず声をあげたように思う。25、26年前の記憶が一気にフラッシュバックした。「まさか、あのニリコ?」
アフリカを放浪旅行しているとき、マダガスカル西海岸を小さな帆船で航海したことがあった。航海といっても僕は操縦できないから、船主の漁師さんと助手兼通訳の若者が一緒だった。船を出してくれる漁師を探しているとき、たまたま知り合ったのが小学校の教員をしていたニリコで、英語とフランス語が話せた。学校が夏休みか何かで暇だったニリコは「僕も一緒に行きたい」と同乗したのである。帆船だから本当に風任せで、夕方になると小さな漁村や無人の浜辺に上陸してそこで野宿するという旅だった。村では子供たちに取り囲まれた。目的地へ着くまでいったい何日間かかったのかもう忘れてしまったが、途中で食料が尽きかけて白米に塩を振って食べたのを覚えているから、けっこうかかったのだろう。
ニリコとは下船した町で別れたきりだったのだが、どうやら彼はその後も教員を続けているらしい。同時に環境教育のNGOを立ち上げて活躍しているようである。SNSを通じて直接彼からそのことを知ることができる時代。便利なような怖いような…。
写真・文 船尾 修さん

船尾 修さん
1960年神戸生まれ。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。アフリカ関連の著書に、「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から」「UJAMAA」などがある。最新作の「フィリピン残留日本人」が第25回林忠彦賞と第16回さがみはら写真賞をW受賞した。
公式ウエブサイト http://www.funaoosamu.com/

「教」日本の中学生 エチオピアに行く

独自の暦を使い、独自の文字を持つエチオピアは、アフリカで唯一、植民地支配を免れた国。「デナ!(元気な)エチオピア」では、その個性豊かな文化を同国に長年暮らした白鳥くるみさんに紹介していただく。
子どもたちに「エチオピアの今」を見せたい。ガールスカウトのリーダーから相談を受けて、スタディツアーを企画した。彼女たちは長年、エチオピアの女の子の支援活動をしている。7泊8日のプログラムは、「ものづくりの現場を知る」「ボランティア・専門家の仕事を知る」「文化と食を体験する」「奨学生に会いに行く」「農業を知る」など盛りだくさん。奨学生が暮らす牧畜民地域へは治安が理由で行けなかったが、農村部の学校を訪問することができた。

訪問したアダマの中・高校
訪問したアダマの中・高校

「温暖化」を日本語で書いて説明
「温暖化」を日本語で書いて説明

海外に関心のある生徒が多い
海外に関心のある生徒が多い

スクールライフと夢

訪ねた中・高校は、オロミヤ州アダマにある男子430人女子500人の大きな学校だ。教科は日本とあまり変わらず、国語(オロモ語とアムハラ語)、英語、化学、地理、歴史、体育、情報などで、私たちがお邪魔した教室では地理の授業をしていた。黒板にはアムハラ語と英語で「地球温暖化」と書かれていた。「今やっている単元だ!」と共通点を見つけた日本の子どもたちは嬉しそうだ。先生は質問タイムも設けてくれた。エチオピア側からは、「宗教はなんですか?」「民族の数は?」「家の手伝いをしますか?」「広島に原爆を落とされたことをどう思いますか?」といった質問がつづき、日本側が答えに窮する場面もあった。
質問の定番?「将来の夢」の答えは興味深い。Q.あなたは将来何になりたいですか? A.エチオピア: エンジニア(男1女1)、医者(男2)、先生(女1)。A.日本:保育士、食品関係、弁護士、女優、研究者、キャビンアテンダント。多様な職業があがる日本に対して、職種の少ないエチオピア。経済の成長が若者に降りてこない現実に、子どもたちは夢を持ちにくいのかもしれない。

ワット(おかず)の種類が多い!
ワット(おかず)の種類が多い!

ダンスとインジェラ体験。美味しい!
ダンスとインジェラ体験。美味しい!

イメージががらりと変わった!

日本の子どもたちは、この旅で何を思っただろう。全員が「エチオピアのイメージが変わった」と言う。「都市部には日本車があふれ道路も整備されていた」「立派な建物が建っていてThe都会だ」「農家は雨季や干ばつを想定した農業を行っている」「田舎の風景や校舎はイメージ通りだったが、日本と同じくらい勉強している」「みんな好奇心が強く、エネルギーに満ちていた」。
「” 旅の目的地」というのは場所のことではない。新たな視点で物事をみる方法のことである”とヘンリー・ミラーは言っている。新たな視点を持った子どもたちが、これからアフリカとどんな関係を築いていくか楽しみだ。

AU本会議場で。スタッフの案内で会議も見せてもらった
AU本会議場で。スタッフの案内で会議も見せてもらった

エチオピアの教育制度(2018年4月現在)

■学校制度:小学校(8年)、中・高校(4年)、総合大学(4年)、専科大学(2~ 3年)※幼稚園(4歳から小学校入学前)
■義務教育:小学校(6~ 13歳)
■学校年度:9~ 6月/4学期制
■学校の種類:国立、公立、私立、キリスト教系、州立
■学費:義務教育は無償
■教授言語:主にアムハラ語、オロモ語、英語(州によって異なる)※高校・大学では英語
■時間割:小学校/月~金曜日。午前と午後の部があり、1カ月ごとに入れ替わる。中学校/午前5時間、午後2時間の計7時間
■放課後:都市部では、サッカー、バスケット、園芸、保健、生徒会などの部活動。農村では、水汲み、家畜の世話、夕食の準備など家の手伝い。
※参考:外務省ホームページ
文・写真提供 白鳥くるみさん

白鳥くるみさん
(アフリカ理解プロジェクト代表)
80年代に青年海外協力隊(ケニア)に参加。以来、教育開発分野で国際協力に力を注ぎ、多くの課題を抱えるアフリカのために何かできたらと「アフリカ理解プロジェクト」を立ち上げる。エチオピアを中心に活動の後、2015年、日本に拠点を移し本の企画出版などの活動をつづけている。

WILD AFRICA 38 セレンゲティは私の原点

私が本格的なサファリを体験したのは1993年の夏、高校卒業直後に父についてタンザニアに渡ったときのことだった。初めて訪れたセレンゲティ国立公園の想像を絶する広大さと、当たり前のようにゾウやキリンやライオンがいるという「現実」に心を揺さぶられたのを今でも鮮明に思い出すことができる。このときの体験が、自然写真家を志すきっかけとなった。
以来25年に渡ってアフリカの自然を撮り続けてきたわけだが、実は1998年以降セレンゲティには足を踏み入れていなかった。セルフドライブで単独行動をするには、国立公園の入園料や車などにかかる経費が高額になりすぎるというのが主な理由だ。しかし、昨年から道祖神でセレンゲティへの野生動物撮影ツアーをやらせていただくようになった。自分としては、ある意味原点回帰を果たした形だ。
約20年の時を隔てて再訪したセレンゲティは、やはり美しい草原や豊かなサバンナに数多の動物たちが暮らす野生の王国だった。コピーと呼ばれる花崗岩の岩場も、川辺にそびえるアカシアの巨木も昔と変わらずそこにあったし、ライオンやチーターがよく現れる撮影ポイントなども記憶していた通りだった。道路や空港、ロッジなどのインフラは随分と整備されたので、人と車の数は大幅に増加したが、それでもあの場所にはやはり色褪せない魅力がある。
ところで、私がガイドを務める撮影ツアーは、通常のサファリツアーと何が違うのかという質問をよく受ける。セレンゲティ国立公園とンゴロンゴロ・クレーターへのツアーに関しては、まず参加者数を4名に限定しているのが最大の特徴だ。使用するサファリカーは6人乗りなのだが、目一杯乗ってしまうと機材を置いたり大型の望遠レンズを扱うスペースが全然なくなってしまうためだ。また、一般的なサファリとは時間の使い方がまったく違う。動物をただ見て終わりではなく、もし相手が何か面白い行動に出そうだと踏んだり、光の条件が良くなりそうだと判断したら、車のポジションに微調整を加えながら一箇所に徹底的に居座ったりもする。そうすることでよりよい写真を撮れる可能性が増してゆくと考えるからだ。
写真は5月の後半に行ったツアーの際に、セレンゲティ南部のゴル・コピー周辺で撮ったライオンの新婚ペア。15分に一度のペースで交尾を繰り返していたので1時間ほど付き合わせてもらった。
撮影データ:ニコンD850、AF-S Nikkor 80- 400mm f/4.5- 5.6 VR、1/3200秒 f8 ISO500( 画角86mmで撮影)

やまがた ごう 1974年、群馬県生まれ。少年時代を西アフリカのブルキナファソ、トーゴで過ごす。高校卒業後、タンザニアで2年半を過ごし、野生動物や風景の写真を撮り始める。2000年以降は、南部アフリカを主なフィールドとして活躍。サファリツアーの撮影ガイドとしても活動している。写真集「From The Land of Good Hope(風景写真出版)」、著書に「ライオンはとてつもなく不味い(集英社新書ヴィジュアル版)」がある。日本写真家協会(JPS)会員。www.goyamagata.com

ゴリラは人間を超えている

ノーベル物理学賞の湯川秀樹という偉大な存在に憧れ、京都大学理学部に入学。物理にも宇宙にも興味はあったが、山スキーで出会ったサルがきっかけで、ゴリラの道へ。今回は、ゴリラを愛し、現地の人々とともに研究・保護活動を続けるゴリラ研究の第一人者、京都大学総長の山極寿一さんにお話を伺った。

「雪の上のサル」を観る人

高校時代は、学生紛争の時代でした。ほとんど授業もなく、本を読んだり映画を観たり、友達と「人間とは何か」なんてペダンチックな議論ばかりで結局何もわからない。そんな状況がイヤで、大学はとにかく東京から離れたかった。調べているうちに京都大学、特に理学部は留年制がなく、卒業までどんな単位の取り方をしてもいいので、自分の可能性を試せると思いました。
もともとスポーツが好きだったので、入学後はスキー部に入ってクロスカントリーを始めました。当初は物理や宇宙に興味があり、ゴリラなんて一切考えていなかったし、人類学も知らなかった(笑)。ところが二年の終わり頃、志賀高原のヒュッテで練習をしていたら、雪の上で双眼鏡を構えてサルを観ている人がいたんです。何をしているんだろうと思って話しかけると、理学部の先輩だった。理学部にサルを研究するところがあるんだって、驚きましたね。それで興味を持ち、伊谷純一郎先生を訪ねたのがすべての始まりです。古本屋で買った伊谷先生の『ゴリラとピグミーの森』には感動しました。子どもの頃から探検にも興味があったので、アフリカが一気に近づきました。理学部は頭を使う学問ですが、体を使う学問っていうのも面白いと思いましたね。
当時の研究室の対象は、チンパンジーと1972年に調査を始めたコンゴ民主共和国(旧ザイール)のボノボでした。伊谷さん自身が1960年にゴリラの調査を断念していたんです。コンゴは独立紛争が続き、ゴリラの研究には時間がかかるため紛争の合間では何もできず、チンパンジーになったという事情があります。日本では、ゴリラはすでに見捨てられた類人猿で、僕の卒業研究も志賀高原のニホンザルでした。
とはいえ、高校時代から「人間とは何か」なんて考えていたくらいですから、人間を知りたいという気持ちも強かったですね。人間の起源、家族の起源を調べるなら、家族的な要素を持たないチンパンジーよりは、ゴリラを調べた方が可能性があると思ったし、アフリカの人間社会にも興味がありました。日本にゴリラの研究者はいないし、欧米の研究者には日本人的な家族の起源を調べようという発想はなかったから、全く違うモチベーションで研究テーマにできると考えました。

ニシローランドゴリラの集団
ニシローランドゴリラの集団

ヒガシローランドゴリラ
ヒガシローランドゴリラ

子どものマウンテンゴリラ、タイタス
子どものマウンテンゴリラ、タイタス

山極寿一さん
山極寿一さん

キンシャサに捨てられて

初めて行ったアフリカは、1978年のコンゴ民主共和国でした。ゴリラの研究者は僕ひとりだったのでボノボ隊に付いて行き、キンシャサで別れました。うちの研究室のフィールドワークは「捨て子の方針」と言われ、初めての人は先輩か指導教員が現地まで同行するが、その後は自力で研究する。僕の場合はキンシャサで捨てられて、現地までも連れて行ってもらえなかった(笑)。当時、世界最悪と言われる国内線で、どこに行くのかわからない。オーバーブッキングが多いため、搭乗アナウンスがあるとみんな走る。僕も荷物を持って走って、近くの人に「ブカブ? ゴマ?」とか訊いて乗り込む。それでも飛ぶとは限らないし、大変な時代でした。一人で千数百キロ東に戻り、国立公園を訪ねて公園長に直談判。それが、ヒガシローランドゴリラが生息するカフジ国立公園でした。
ゴリラの研究は、公園のトラッカーたちと毎晩酒を飲んで、信頼関係を築くところから始めました。ピグミーのトラッカーを味方につけて、調査許可をもらう。それから三人のトラッカーに連れられてキャンプしながら二週間、森を歩き回りました。ゴリラの痕跡をたどりながら山を登って、公園の感触をつかむ作業です。その後、近くに家を借りてトラッカーたちの話を聞きながら、少しずつゴリラに慣れていきました。
公園長のベルギー人は、現地の女性と結婚してザイール化した人でした。ゴリラ観光をやるためにゴリラを人に慣れさせる「人付け」をして、当時二つのグループが慣れ始めていました。僕は、観光客と一緒にゴリラのところまで行って、そのあと残って観察する。観光客が行けないところに移動した場合は、トラッカーと一緒にテントを持って移動してゴリラを独占することができました。まだ慣れてないから、ずいぶん怒られましたよ(笑)。
九カ月間、多くのことを学びました。研究するためにはゴリラを人付けする必要があるし、ピグミーのトラッカーや公園のレンジャー、地元の人々と付き合うことも学んだ。トラッカーたちと話すためにスワヒリ語も勉強しました。カルチャーショックは全くなくて、食事も生活も人付き合いも、いろんな体験ができて面白かったですね。

ヒガシローランドゴリラのシルバーバック、チマヌーカ
ヒガシローランドゴリラのシルバーバック、チマヌーカ

ヒガシローランドゴリラの双子
ヒガシローランドゴリラの双子

調査初期 カフジ国立公園のスタッフと
調査初期 カフジ国立公園のスタッフと

調査初期 初めてゴリラを観察
調査初期 初めてゴリラを観察

師匠はダイアン・フォッシー

僕はドクターになってからゴリラを始めたので、学位論文を書くためにはあまり時間がありませんでした。カフジに一回行ったくらいで論文は書けない。一人だし、まだ学生だから予算も取れない。結局、伊谷先生の計らいで、博士課程を中退して日本学術振興会の駐在員としてナイロビに赴任しました。「ナイロビに駐在して、あとは自費でやれ!」というわけです。当時、ルワンダのカリソケ研究センターにはマウンテンゴリラの研究者として知られるダイアン・フォッシーがいました。映画『愛は霧のかなたに』でシガニー・ウィーバーが演じた人物です。彼女がナイロビに来るのを待ち構えて会わせてもらいました。個性の強い人で、研究者嫌いでも有名。「ゴリラの声を出してみろ」とテストされて、かなり違ったと思いますがOKをいただきました(笑)。カフジで苦労してヒガシローランドゴリラの調査をしていたから、面白そうだと思ってくれたんでしょう。僕のフィールドワークの師匠は、ダイアン・フォッシーになりました。
1980年、ルワンダのヴィルンガ山地に初めて足を踏み入れて、マウンテンゴリラと対面しました。彼女はゴリラの行動を自分が真似て、ゴリラに近づいていく。声も行動も真似ることで、時間をかけてゴリラと信頼関係を築いていきます。僕も彼女の指導のもとでゴリラを観察しているときは、ゴリラと一緒に行動して、自分の方がゴリラのペットになっていました。だから彼らの自然な行動を記録できたんだと思います。

ゴリラを観察する山極さん(1980年)
ゴリラを観察する山極さん(1980年)

ワナを手に持つダイアン・フォッシー
ワナを手に持つダイアン・フォッシー

ルワンダのカリソケキャンプにて(1982年)
ルワンダのカリソケキャンプにて(1982年)

マウンテンゴリラの家族
マウンテンゴリラの家族

「発見」は、ある日突然

僕の座右の銘は「ゴリラのように泰然自若」なんです。サルもチンパンジーも人間を超えているとは思えませんが、ゴリラは人間を超えている。人間より高尚という印象があります。一番いい例を挙げると、「ゴリラは人間をペットにできるけど、人間はゴリラをペットにできない」。ヴィルンガの森で、ゴリラはペットのような感覚で僕を森の中にいさせてくれました。包容力が高いから、僕がいても全く緊張がなく、人とゴリラの境界がなくなる。この距離感のなさは、野生の動物ではありえないですよね。どの人間が大丈夫か、ゴリラにはわかるんです。
もう一つ、ゴリラの魅力は負けず嫌いなところ。負けないためには、勝敗をつけるのではなく、対等に引き分ける。勝つためには相手を負かせ続けなければいけないから、どんどん孤独になっていく。勝つ論理と負けない論理は、全く違うということを学びました。研究者には、「気付き」が求められます。常に彼らの行動を観察しながら、他の対象と比較して、頭の中で質問を作っていく。僕はニホンザルを知っているから比較しやすいし、その比較の中に人間を入れれば、三角測量ができるから面白い。人間はサルでもゴリラでもないが、似たところがある。そこから人間という輪郭が見えてきます。
こうして現場で地道な作業を続けていると、ある日、目の前で「えっ!?」という不思議な事象が起こる。それが「発見」。例えば、ある日ゴリラが僕の顔をずっと見ているので威嚇だと思い、顔を伏せた。ニホンザルが相手の顔を見るのは威嚇だからです。でもゴリラはさらに僕の顔に自分の顔を近づけてくる。僕はそらす。ゴリラは執拗にのぞき込む。「えっ! 何だろう?」。ゴリラは僕が顔をそらしたことに憤慨してドラミングという行動に出た。「威嚇じゃなかった!」。これが発見。ゴリラの挨拶だったんです。僕は「のぞき込み行動」と名付けました。一緒に過ごしていると、「仲裁行動」「和解行動」「交尾の誘い」「遊びの誘い」など、行動の意味がいろいろわかってきます。「発見」は現場にいればできるものではありませんが、いなければ絶対にできません。

ドラミング
ドラミング

求愛行動
求愛行動

三者のぞき込み行動
三者のぞき込み行動

仲裁行動
仲裁行動

研究も保護も現地の人たちと

ダイアン・フォッシーは、ゴリラを研究するなら保護にも力を注ぐべきと考えていました。少女のような心を持った人で、自分が愛していたゴリラを殺されたため、密猟者に並々ならぬ敵意を抱いていました。礼儀をわきまえない欧米の研究者や、動物に罠をかける地元の人々、ピグミーのトラッカーさえも信じられなくなっていった。やがてゴリラの保護から逸脱し、過激な行動で密猟者を取り締まったために報復を受けるという悲劇が起こってしまいました。
僕はこの事件から多くを学び、教訓を二つ得ました。一つは現地の研究者と一緒に仕事をすること。もう一つは現地の人とゴリラの保護のための組織を作ることです。
1986年、初めて科研費の代表者になり、チンパンジーとゴリラが一緒に暮らすカフジに戻りました。植物生態、サル、チンパンジー、ゴリラの総合調査を行うためです。その後も内乱状態が続くコンゴで、現地の優秀な研究者であるバサボセ・カニュニを中心とした十数人のスタッフとともに基地を維持し、二人で論文を書くことで世界の研究者たちにカフジでの研究をアピールしてきました。内戦が激化し、学生を送り込めなくなってからは、ガボンのムカラバにもう一つの新しい調査地を求め、ニシローランドゴリラの研究を始めました。私は通年で滞在できないため、教務補佐員の安藤智恵子さんに現地に張り付いてもらいました。そして学生たちと協力しながら、パパジャンティ率いる22頭という大きな集団の人付けに成功。欧米の研究者も成しえなかった快挙です。
もう一方の教訓では、カフジのツアーガイドをしている地元のジョン・カヘークワと1992年に「ポレポレファウンデーション(ポポフ基金)」を設立しました。僕自身は保護活動のためにゴリラを研究してきたわけではありません。これまで接してきたゴリラたちから得た認識を現地の人たちと共有し、現地の人たちにゴリラと一緒に生きるという気持ちになってほしいと思っています。それが僕の考えるゴリラの保護。だから、地元の人たちが中心になって、保護・保全の活動を担い、ツアーガイド、ツアーキューレターをやってもらう。ゴリラの人付けにも地元の人たちを巻き込んで、一緒に森のことを知ってもらいます。ダイアン・フォッシーの事件がなければ、これほど一生懸命に保護活動をしなかったかもしれませんね。

一緒にポポフ基金を設立したジョンと
一緒にポポフ基金を設立したジョンと

安藤さんやムカラバのスタッフたちと
安藤さんやムカラバのスタッフたちと

ゴリラの糞を分析するスタッフ
ゴリラの糞を分析するスタッフ

ポポフ基金創立20周年記念
ポポフ基金創立20周年記念

エコツーリズムも実現間近

観光客がゴリラを観察するときのコツは、決してゴリラより速く動かないこと。サルやチンパンジーに比べると、ゴリラは何もしない。じっとしています。でも、その目線の先に何があるのかを体のしぐさに注目しながら、よく観てください。例えばゴリラ同士が出会っても、じっとしている。その間の取り方がすごく長く、ゴリラは頭の中で何かシミュレーションしながら、相手の反応を待っている。そして、行動に移ったときは目的に向かってまっしぐら。そういった状況をゴリラの身になって考えると、彼らの視線の置き方とか行動が見えてくると思います。
ゴリラと同じ目線で歩いて、ゴリラがつかんだものをつかんでみる。ゴリラの周りにある環境を自分も味わい、ゴリラが寝ころんでいるところに寝ころんでみる。そうすれば彼らの世界観がわかってくるでしょう。そして、ほんの瞬間でもゴリラがこちらに注目してくれたら、その一瞬を大事にすること。その時、ゴリラの目の中に何が起きるか。好奇心いっぱいのゴリラの目は金色に輝きますよ。
最近では、ガボンとルワンダも飛行機で行けるようになりました。ローランドゴリラとマウンテンゴリラを一緒に観るツアーも可能です。ガボンのムカラバ国立公園もようやく形になってきたので、エコツーリズム化も考えています。そんなに時間はかからないと思いますので、道祖神のお客さんも期待していてください。

マウンテンゴリラと一緒に(2010年)
マウンテンゴリラと一緒に(2010年)

写真提供:山極 寿一さん

著書紹介

『ゴリラ』第2版 東京大学出版会 2,900円(税別)
『ゴリラ』第2版 東京大学出版会 2,900円(税別)

『ゴリラからの警告』~人間社会、ここがおかしい~ 毎日新聞出版 1,400円(税別)
『ゴリラからの警告』~人間社会、ここがおかしい~ 毎日新聞出版 1,400円(税別)

山極寿一さん
1952年、東京都生まれ。1975年、京都大学理学部卒業。1980年、京都大学大学院理学研究科博士課程退学。ルワンダ・カリソケ研究センター、日本モンキーセンター、京都大学霊長類研究所、同大学院理学研究科教授を経て、現在は京都大学総長、理学博士。40年にわたり、野生のニホンザルやチンパンジー、ゴリラの行動の研究を続けている。『ゴリラは語る』『家族進化論』『「サル化」する人間社会』など著書多数。