African Art 17 ピグミー、ムブティ族の腰巻、タパのデザイン

コンゴ民主共和国の北、ウガンダ国境近くのイトゥリの森に住むピグミー、ムブティが作る樹皮の腰巻に描かれた模様はとても興味深い。通称タパと呼ばれるこの樹皮はクワ科のイチジクの木から剥いだものである。

タパ 76×44cm
タパ 76×44cm

タパ 65×48cm
タパ 65×48cm

ピグミーは何千年も前から中央アフリカ、熱帯雨林の奥深くに暮らしてきた。ピグミーの名は、ギリシャ伝説で小柄な人を意味する「ピュグマイオイ」に由来すると言われている。ムブティはピグミーの典型的なタイプで成人男子の身長は平均140cmと低く、一夫一婦制で成人20~50人とその子供たちで一つの共同体を作って暮らしている。狩猟採集を行いながら移動を繰り返すため、枝を組んで大きな葉を重ねて置いただけの簡素な家に住み、祖先や精霊に対するアニミズム信仰も持っていない。金属の加工も知らず、布を織ることもなく、森の住人として生き続け、このタパだけがその豊かな精神性や美的感覚の表現だった。
小屋の前に立つ腰巻をつけたピグミーの少女
小屋の前に立つ腰巻をつけたピグミーの少女

同じ森に住むもう一つの部族、マンベツ族はかつて大きな王国を繁栄させていたが、腰巻のタパに自分たちで模様を描くことはなく、ムブティにそのデザインを頼んで描かせていた。周辺のマンベツ族や北のスーダンに住むヌバ族はボディーペインティングで良く知られているが、その文様はムブティのデザインに似ている。
タパに描かれるモチーフは幾何学的で一つ一つが星や動物や昆虫、蝶など森で見られるあらゆるものを表わしている。模様に関する決まりごとはなく、タパの樹皮布にのびのびと描き、見事なコンポジションを持つ絵画のようである。一枚のタパを2分割、または4分割し、それぞれ違ったキャンバスに見立てて、全く異なったデザインが描かれているものも多い。これはタパが折って使われることを考慮してのこととも考えられるが絵の構成としては異質である。この視覚的特徴は、彼らの独特なポリフォニー(多声音楽)と関連づけて考えられることがある。ムブティの歌はヨーデルや叫び声の多用が目立ち、自由で即興性に溢れている。これは、ムブティが周辺の農耕民族のように固定した社会構造を持たず、より平等な共同体で暮らしていることの反映とも言われている。タパのデザインもその平等社会を映しだすかのように、中心となるモチーフはなく一つのモチーフが他の部分を支配することは決してない。ムブティのタパは現代美術として評価も高く、素材と表現の簡素さに究極の美が宿っているのかもしれない。
ムブティの住むイトゥリの森
ムブティの住むイトゥリの森

写真提供/小川 弘さん

小川 弘さん
1977年、(株)東京かんかん設立。アフリカの美術品を中心に、アフリカ・インド・東南アジアの雑貨、テキスタイルなどを取り扱っている。著書にアフリカ美術の専門書「アフリカのかたち」。公式ウェブサイト http://www.kankan.co.jp/

Africa Deep!! 50 呪力が支えたマプングブエ王国、盛者必衰の理をあらわす……

最近イランのペルセポリスという遺跡を訪れたのだが、驚いたのはそこが繁栄していた年代。紀元前6世紀といえば日本はようやく稲作が始まったばかりの縄文時代後期にあたる。そのような時代に、訪れる者を圧倒させる巨大な石組の建造物や見事な彫刻が隆盛を誇り、何万人もの兵士や従者らが警備する都市型の王権社会が成立していたのである。
南アフリカ共和国の北方、リンポポ川付近にかつて栄えたマプングブエ王国もまたそうした都市型の文明だった。といっても、アフリカは一部の例外を除いて日本の古代と同様に栄えたのは「石の文化」ではなく「木の文化」。長い時間の流れのなかで木は朽ちてしまい痕跡があまり残らない。だから訪れたマプングブエも住居などが遺されているわけではない。乾燥したサバンナの中に長さ300メートル、高さ30メートルほどの船型に隆起した丘陵が認められるだけだ。しかしこの遺跡はあの有名なグレート・ジンバブエ遺跡を築いたショナ王国の前身にあたる民族集団によるものと考えられている。王国の最盛期は11世紀から13世紀ごろだが、6世紀にはすでに居住が始まっていた。
この王国のユニークな点は、船型の丘陵上には長老や指導者などの支配層が、丘陵の周囲を取り巻くサバンナには庶民が暮らしていたこと。飲料水なども下から運ばせていたらしく、はっきりと階層が分かれていた。マプングブエとは「雨をもたらす丘」の意。おそらく丘陵で雨乞いの儀式が行われていたに違いない。そしてその呪力を支配層は庶民に示すことによって国の統治に利用したのだと想像される。こうした「中心となる特別な力」がないと国はうまくまとまらない。現代でもその力は、国によって「経済」だったり、「首領への忠誠心」だったり、「武力」だったり。
しかし「盛者必衰の理をあらわす」という諺のとおり、永遠に続く繁栄などあり得ない。マプングブエも旱魃のため、水害のため等いろいろ説はあるが、都としての機能はせいぜい数百年であった。その後ずっと忘れられていたが、1932年に地元の白人農家によって丘陵上で金製品が発見されたことにより蘇った。その「盛者」の証である金製品、なかでも王権をあらわしたといわれるサイの像は美しい造形であるがゆえに、逆にもの哀しさを誘うのである。
写真・文  船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。写真家。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、いつのまにか写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。第9回さがみはら写真新人賞受賞。第25回林忠彦賞受賞。第16回さがみはら写真賞受賞。著書に「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から~狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵」「世界のともだち⑭南アフリカ共和国」「カミサマホトケサマ」「フィリピン残留日本人」など多数。元大分県立芸術文化短大非常勤講師。大分県杵築市在住。
公式ウェブサイト http://www.funaoosamu.com/

初心者がゼロから始める登山 キリマンジャロへの道 Lesson 8 国内登山と海外登山

今回は、国内登山と海外登山の違いについて、お話しします。
登山を始めて数年が経ち、国内の主だった山に登って経験もそれなりに積まれた方にとって、次に目指すものには二つの方向性があると思います。一つは雪山登山・岩登り・沢登りなどの、より高度な技術を要する登山やテクニカルクライミングの世界に足を踏み入れること。そして、もう一つが海外登山です。いずれも、一人で実行するにはリスクが大きいため、登山用品店や山岳会が主催する講習会に参加したり、旅行会社を通じてツアーで海外登山に出かけたりというところがスタート地点となります。弊社が企画している講習会で最終的な目標としているキリマンジャロ登山も、ツアーでの海外登山に含まれます。
登山を趣味とされている皆さんは、長年憧れている“いつか登ってみたい・歩いてみたい山”をそれぞれにお持ちだと思います。ネパールのエベレスト街道、パタゴニアのパイネ展望トレッキング、ニュージーランドのミルフォードトラック、アメリカのヨセミテ国立公園のトレッキングルートなど、登山をされる人の数だけ憧れの山があるでしょう。もちろん、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロを大きな目標とされている方も多いと思います。

キリマンジャロ
キリマンジャロ

フィッツロイパタゴニア
フィッツロイパタゴニア

ドルポネパール
ドルポネパール

コンコルディアK2
コンコルディアK2

海外登山に個人で行かれる場合には、膨大な量の様々な情報を仕入れ、必要事項は事前に手配する必要があります。航空券、宿泊、ガイド、山小屋、現地での食事などなど、全てを一人で手配するには、半年くらいかけてじっくり準備を進めて行く必要があります。また、現地に入ってしまったら、コミュニケーション(言葉)の問題が出てきます。ネパールなどでは現地発着のツアーが多く、オプショナルツアー的に現地到着後に申し込んで参加できるトレッキングツアーもあります。日本語が通じるケースが多い国であればそれほど難しくありませんが、南米やアフリカでは、限られた旅行期間内で全てを現場で手配するのは、かなり難しいと思われます。それを手っ取り早く省いてしまうのが、ツアー参加での海外登山となります(その分お金はかかりますが…)。
個人旅行的性質を残したい場合は添乗員なしのツアーを、言葉やその他に不安がある方は添乗員付きのツアーを選択していただければ、面倒な手配・手続きは全て旅行会社が代行します。それでも、日本とは違う気候、風土、生活習慣の元での登山となりますので、食事や水、体調管理など、ご自身で対処しなければならないことは多く残ります。
これから海外の山を目指す方々には、まず東南アジアや中国、ネパールあたりのアジア圏で海外登山に慣れていただき、続いてヨーロッパアルプス、キリマンジャロや南米パタゴニア、アンデスなど、少しずつステップアップして、世界中にごまんとある山の中の『憧れの山』を目指していただくと良いのではないかと思います。
羽鳥

ナイロビ ダイアリー no.7 「T.I.N.」

ナイロビでは、よく「T.I.N.」という
言葉を耳にする。
読み方は「ティー・アイ・エヌ」、「ディス・イズ・ナイロビ」の略。
何が起きても、「ティー・アイ・エヌ」。
大統領選挙が何回やり直しになっても、空港が燃えても「ティー・アイ・エヌ」。
「なぜならナイロビだから」。
何の理由にもならない答えが妙に説得力を持っている。
これでいいのか?いや、よくない…はず。
そんな「ティー・アイ・エヌ」に翻弄される毎日です。

盗難防止システム

ある日の夕方、仕事を終えていつものように渋滞の列に並んでいた時の事だ。道路を横断する人々をかわしながら、車をじりじり進ませていると、道行く人の中で、1人の少年が私の車の横で急に立ち止まった。視線は明後日の方向を向いているが、いやに車に近い。ぴったりと寄り添うように立っているので、「ん?何か変だな」と思った瞬間、「バキバキッ」と何かが外れる音がして…少年は一瞬にして人々の群れの中に見えなくなった。あまりの早業に声を上げる隙もなく、ものの数秒で車のウインカーが盗まれていた。何も運転中の車から盗ることもないだろうに…、手際の見事さに言葉がなかった。
後日、車の部品を中古市場に探しに行き、運良く同じ型のウインカーを見つけて喜んでいたら、修理工のおっさんが「ちゃんと、盗難防止システムを付けた方がいいぞ」とアドバイスをくれた。具体的に“システム”とやらのイメージは浮かばなかったが、せっかくだからお願いした。
30分ほどして戻ってくると、左右のウインカーは、上から薄い鉄板でガードされ、車体に穴を開けて埋め込まれていた。おまけに、サイドミラーも太いワイヤーで、がっちり車体と繋がっていた。思いのほか出来が良かったのか、おっさんは煙草を吹かしながら、しきりに「ビューティフル…」と、ひとり悦に入っていた。あまりに力技の“盗難防止システム”に、私が唖然としていると、おっさんが一言。「ティー・アイ・エヌ」(ナイロビだからな)。

ウインカーもしっかりガード
ウインカーもしっかりガード

サイドミラーはチェーン付きだ!
サイドミラーはチェーン付きだ!

トレーニング

昨年末、現地添乗員としてナイロビからキリマンジャロ登山に同行するという仕事があった。日頃の運動不足もあり、果たして6,000m近い山に登れるだろうか?と、不安があったので、1カ月くらい前から近所のジムでトレーニングをはじめた。
専属トレーナーの先生が1対1で付いてくれる本格的なもので、初日はどういう内容のトレーニングがしたいのかを話し合う。登山の仕事のことを説明し、筋力というよりは持久力を付けたい、高地登山向けに肺活量をアップさせたいとお願いし、先生は「うんうん」と大きな笑顔で頷く。

怒ると怖い先生。逆らえません。
怒ると怖い先生。逆らえません。

翌日からさっそくトレーニングが始まった。まずは3階建てのビルの階段をダンベルを持って、ひたすら往復登り降り、これはきつい。休む間もなく腕立て・腹筋・スクワットを何セットも。これもきつい。ゼーゼー肩で息をしていると、「休むな!」と容赦なく言葉が飛んでくる。ヘッドギアを付け、グローブを嵌めてサンドバッグを叩く。先生の指導にも熱が入り、左ジャブ・右ストレートの打ち方を実戦さながらに身体で覚えさせられる。「今のパンチはいいぞ!」などと言われると、ついつい力が入る。腕が上がらなくなった頃に終了。先生から、「きちんとパンチが打てるようになったら、来週はミドルキックを教えてやる」と言われ、思わず嬉しくなる。…が、はたと気づいた。自分はここに何しに来たんだっけ?登山とミドルキックは果たして関係あるんだろうか?疑問がよぎったが怖くて聞けない。しかし、数週間のうちにトレーニングはどんどん実戦向きになっていき、関節技や絞め技なども取り入れられ始めた。これは絶対に登山とは何の関係もないはずだ…。遠のく意識の中でそんなことを思う。
ある日、意を決して先生に、トレーニングの方向性が違うのではないかと訴えた。答えは一言、「ティー・アイ・エヌ」(ナイロビだからな)。なぜか逆らえない説得力があり、それ以上は何も言えなかった。数週間後、無事にキリマンジャロを登頂し、添乗業務もやり終えた後、私は再びジムの門を叩くことはなかった。
頑張って鍛えています。なぜならナイロビだから。
頑張って鍛えています。なぜならナイロビだから。

生野

風まかせ旅まかせ Vol.16 セントヘレナ島を訪れた

10年ほど前にセントヘレナ島を訪れた。ナポレオンの流刑地として有名な島だが、飛行場もなく、南アフリカのケープタウンから船で6日もかかる。その船も本数の少ないイギリスの郵便船、海外領土の離島を定期的に結ぶメールシップだ。僅かな客室が用意され、余裕を持って予約をすれば観光客も乗せてもらえる。
しかし南極からの海流の影響か大西洋の波は荒く、小さな貨客船に揺られる乗客にはハードな旅が続き、6日目の朝に小さな島影が見えたときは感慨もひとしおだった。小さなボートを使って上陸すると目の前にジェームスタウンの町が広がる。850人ほどが住むセントヘレナ島唯一の大きな町だ。山から海に向かって延びる谷に沿って町が作られており、小さな博物館、数件のホテル、小学校、雑貨屋、郵便局などが続く。人影は少なくひっそりした印象だ。
用意された車に乗って、数キロ離れた島の中央部へ向かう。フランス国旗がはためく古い平屋を訪れる。1815~1821年に掛けてナポレオンが幽閉された家だ。愛飲したケープ産ワインの空き瓶、ベッドやテーブル、服などがそのまま残され見学することができる。その後、森の中に作られた墓へ。鉄策で囲まれた墓に既に遺骨はないが(パリのアンバリッドに移されている)当時の面影を感じることができる。
セントヘレナはスエズ運河が完成するまでの間、又それ以前の大航海時代に大西洋を航海する船にとって、水や食料(豚が有名だったそう)の補給地として大変重要な島だった。現在より遥かに活気のある島だった様子は、博物館に展示された写真で見ることができる。沖合いに大小の帆船が停泊し、町にも多くの人々、何台もの馬車が写されている。この島を訪れた人々は、歴代の知事に挨拶に行きビジターズブックに記帳している(実際に見ることもできる)。幕府に開国を迫ったペリー、オランダ人医師シーボルト、シンガポール総監のラッフルズ、古くは天正遣欧少年団もこの島を訪れているようだ。
12日間の行程中、セントヘレナ滞在は僅か2日間だったが、実に多くのことを学んだ幸福な2日間だった。こんな旅もいいな、と思う。
写真 : セントヘレナ島ジェームスタウン by Andrew Neaum from Wikimedia Commons