Africa Deep!! 67 かつての辺境といつでも「つながる」現代という時代の不思議

フェイスブック、ツイッター、インスタグラム…いわゆるSNSは最近では多くの人たちにとってもはや日常生活になくてはならない必須のツールとなっている。
数年前、見知らぬ人からフェイスブック上で「友達申請」が来た。友人・知人以外は僕は基本的に「承認」しないことにしている。それでいつものように放っておいたら、何日か後にメッセージが届いた。「はい、オサム! 僕のことを覚えているかい?」という短文だった。怪しい…。こういうメッセージもわりとたくさん来る。応答しているうちに怪しいサイトへ誘導されるという手口だ。それで無視していたら、「あのときの旅は僕にとっても忘れられないものだったよ。今でもモロンダバの村で家族と暮らしています」というメッセージが続けて届いた。
モロンダバという村の名前は憶えている。このときになって初めてその人のアイコンをまじまじと見た。真っ青な空をバックに中年の黒人が写っている。名前は、ニリコとある。ニリコ、ニリコ…。「あっ!」と僕は思わず声をあげたように思う。25、26年前の記憶が一気にフラッシュバックした。「まさか、あのニリコ?」
アフリカを放浪旅行しているとき、マダガスカル西海岸を小さな帆船で航海したことがあった。航海といっても僕は操縦できないから、船主の漁師さんと助手兼通訳の若者が一緒だった。船を出してくれる漁師を探しているとき、たまたま知り合ったのが小学校の教員をしていたニリコで、英語とフランス語が話せた。学校が夏休みか何かで暇だったニリコは「僕も一緒に行きたい」と同乗したのである。帆船だから本当に風任せで、夕方になると小さな漁村や無人の浜辺に上陸してそこで野宿するという旅だった。村では子供たちに取り囲まれた。目的地へ着くまでいったい何日間かかったのかもう忘れてしまったが、途中で食料が尽きかけて白米に塩を振って食べたのを覚えているから、けっこうかかったのだろう。
ニリコとは下船した町で別れたきりだったのだが、どうやら彼はその後も教員を続けているらしい。同時に環境教育のNGOを立ち上げて活躍しているようである。SNSを通じて直接彼からそのことを知ることができる時代。便利なような怖いような…。
写真・文 船尾 修さん

船尾 修さん
1960年神戸生まれ。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。アフリカ関連の著書に、「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から」「UJAMAA」などがある。最新作の「フィリピン残留日本人」が第25回林忠彦賞と第16回さがみはら写真賞をW受賞した。
公式ウエブサイト http://www.funaoosamu.com/

Africa Deep!! 66 何もかもが新鮮だった35年前の初めてのアフリカ旅行

僕が初めてアフリカの土を踏んだのは35年前のこと。その春に大学を卒業して出版社で働き始めたばかりだったが、海外の山に登ってみたい!という誘惑に抗しきれず、新入社員のくせに会社に無理を言って年末年始に二週間ほどの休暇をもらった。行き先はキリマンジャロ山である。
実はこのときが僕と同行の友人にとっての生まれて初めての海外旅行。行くと決めたものの、何をどのように準備したらよいのか皆目見当がつかない。今のようにガイドブックもなく、おそらく旅行会社が企画する登頂ツアーなどもなかったと記憶している。唯一、頼りにしたのは、今でいうバックパッカー向けの「オデッセイ」というガリ版刷りのような雑誌。そこにキリマンジャロに登った人の体験記が出ていた。その「オデッセイ」に広告を出していたのが道祖神である。
目黒駅前のオフィスを訪ねると、僕と同年配の方が応対してくれた。35年たった今も親交が続いている現在南アフリカ共和国のヨハネスブルグに駐在する高達さんである。僕は旅行にいったいどれくらい金額がかかるのか相談した。「旅行の仕方によって全然違ってきますね。百万円かかることもあれば、数万円でもオッケーかもしれないし」というのが高達さんの返事。これではますますわからない。
「若いのだから現地で直接交渉したほうが旅はおもしろいと思うよ。安くあがるし」という説明を受け、商売にあまり熱心じゃない会社だなあと思ったが、後になって高達さんは入社直後だったことを知った。実際は旅行手配に慣れていなかっただけなのかもしれない。結局、道祖神ではナイロビ往復の航空券のみ購入した。
そして出かけたアフリカは見るものすべてが新鮮で、大げさでなく僕のその後の人生を決定づけるほどのインパクトを与えてくれた。サバンナの真っただ中で槍を手にバスに乗り込んできたマサイの人たちの姿。ドキドキしながら犯罪(闇両替)に手を染めたこと。社会主義経済が破綻寸前でビスケットと石鹸しか売られていなかったタンザニアの商店。路上生活者のあまりの多さにビビったナイロビの下町。満員にならないと発車しないバス。賄賂をねだる国境のイミグレ係官。高山病でゲロを吐きながら登ったアフリカ最高峰。
どちらかというと散々な目に遭った旅行だったが、当時の情景は僕の脳裏に今も美しい記憶として刻み込まれている。
写真・文 船尾 修さん

船尾 修さん
1960年神戸生まれ。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。アフリカ関連の著書に、「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から」「UJAMAA」などがある。最新作の「フィリピン残留日本人」が第25回林忠彦賞と第16回さがみはら写真賞をW受賞した。
公式ウエブサイト http://www.funaoosamu.com/

Africa Deep!! 65 火山とクレーター アフリカの山の魅力とは

僕は若い頃、クライミングにはまっていた時期があり、海外へもたびたび自分の腕を試すために武者修行の旅に出ていた。標高差千メートルを超える大岩壁やナイフのように研ぎ澄まされた雪稜にルートを拓いていくときの高揚感。自分のちっぽけなからだを大自然の中に投げ出して、テクニックと体力を駆使しながら少しずつ高度を稼ぎ、やがて山頂に達する。あのときの達成感というか充足感を越える体験は、人生の中でも滅多に得られるものではない。命を懸けてまでクライミングや登山という行為にうつつを抜かす理由はたぶんそういうところにある。
いっぽう円錐形の火山は、特別な技術を必要とすることなく山頂に達することができる。でも断言してよいが、火山を登ることはとてつもなくドキドキすることでもある。僕の火山体験はかれこれ30年以上前にさかのぼる。東京都の伊豆大島。三原山が噴火した事件を覚えている方もおられるだろう。あのときはほぼ全島民の一万人以上が島外に避難した。避難は一カ月ほどで解除されたが、僕はその直後に島へ渡った。何を考えての行動だったのか理由は思い出せない。
覚えているのは、何かに憑かれたように島を歩きまわったこと。溶岩が家屋を押し流し、あちこちで煙がくすぶっていた。行けるところまで行ってみようと三原山を登り始めたが、案の定、途中にロープが張られ立ち入り禁止になっていた。靴の裏からじんわり熱が伝わってきた。「地球は生きているんだな」とまざまざと実感させられた瞬間だった。
アフリカにはよく知られているように大地溝帯というものがある。地下のプレートが活発にぶつかり合う場所だ。だから当然、その周辺には地下のマントルがうねり噴き出す箇所、つまり火山がある。キリマンジャロもケニア山も火山なのである。キリマンジャロをノーマルルートから登ったことのある人なら、マンダラ小屋を少し過ぎた右手にクレーターがあったことを覚えているだろう。
僕のおすすめの火山は、メルー山。タンザニアのアルーシャの町から眺めることができる山である。キリマンジャロの陰に隠れてあまり知られていないが、山頂部には阿蘇山のような巨大なクレーターがあり、かつての噴火口をのぞむことができる。登山道は火山灰が降り積もったところに付けられているため、靴が埋もれて歩きにくいことこのうえない。しかし今にも噴火しそうなクレーターの美しい姿態は「地球が生きている」ことを五感に呼び覚ましてくれるに違いない。
文・写真 船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。アフリカ関連の著書に、「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から」「UJAMAA」などがある。最新作の「フィリピン残留日本人」が第25回林忠彦賞と第16回さがみはら写真賞をW受賞した。
公式ウエブサイト http://www.funaoosamu.com/

Africa Deep!! 64 難破船の墓場を歩く シップレック・トレイル

先日ある雑誌への原稿を書くために、書棚にあった岩波文庫の「海神丸」という本を読み返していた。もう何十年も前に読んだ小説なのだが、なぜ再読したかというと作者のことを記事にしなくてはならないからであった。
作者の野上弥生子は大分県の臼杵市の生まれ。文化勲章なども受賞している作家なので郷土では有名人で、記念館もある。彼女の生家は臼杵市の大きな造り酒屋で、その分家はフンドーキン醤油という大分県民なら知らぬ人はいないという大会社だ。
それはともかく「海神丸」は野上弥生子の代表作のひとつで、僕も再読しているうちにあらすじの記憶がよみがえってきた。この小説のモデルは大正時代に臼杵周辺で難破した実在の船舶である。57日間漂流し続けたという記録が残っている。
結果的にこの船は救出されるのだが、乗組員がひとり死亡した。そしてそのひとりはどうやら他の乗組員に殺害され食べられたという噂が広がった。野上弥生子はそれがほぼ事実であったことをひょんなことから知り、創作欲をかきたてられたと言われている。実際に本書を読むと、極限状況に置かれた人間がどのような心理状態に陥っていくのか、思わず文章にぐいぐいと引き込まれていく。やはり名作なのだった。
そのとき思い出したのが、「そういえば南アフリカで難破船を見たことがあったな」ということだ。話が思い切り飛んでしまい申し訳ないが、それは喜望峰にほど近い海岸だった。シップレック・トレイル(難破船のトレイル)と名付けられていたが、岩がごつごつ露出した海岸線を歩くというもので、トレイルそのものがあるわけではなかった。
とにかく風が強かった記憶がある。喜望峰は1488年にポルトガル人のディアスによって発見されたとき、あまりの風の強さに最初は「嵐の岬」と名付けられた。実際に喜望峰を訪れたことのある人なら知っていると思うが、台地状にせりあがった断崖には波が音を立てて打ち寄せている。
古い記録によれば、「発見」から300年ほどの間に20数隻の船がこの近辺で難破したという。トレイルを歩き始めてすぐに砂浜に半ば埋もれた難破船を見ることができた。鉄骨だったのでそんなに大昔のものではないかもしれない。調べてみると、戦時中や戦後も結構このあたりで難破した船があるようだった。原因は強風と濃霧だという。この人たちは無事に生き延びることができたのだろうか。それとも……。
文・写真 船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。アフリカ関連の著書に、「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から」「UJAMAA」などがある。最新作の「フィリピン残留日本人」が第25回林忠彦賞と第16回さがみはら写真賞をW受賞した。
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Africa Deep!! 63 マウント・ケニアが育んだ世界を席巻する紅茶

僕が暮らしている大分県杵築市では日本国内では珍しい紅茶が特産品になっている。戦後になってから紅茶の生産が開始されたそうで、農家の人に話を直接聞きに行ったことがある。それによると日本では紅茶の生産そのものはすでに明治初期から政府が奨励して開始されていたという。
ところが1971年に紅茶の輸入自由化が決められると、国際的な価格競争にさらされてしまい、国内の紅茶農家は次々と廃業に追い込まれていった。杵築市の紅茶はブランド化してかろうじて生き残っているが、現在では日本で販売されている紅茶の大半は外国産である。
紅茶といえばインドをすぐに思い浮かべる。アッサムやダージリンという産地名は誰でも知っている。実際、生産量は世界第一だ。ところが紅茶の輸出量となると、ケニアが世界第一位に躍り出ることはあまり知られていないのではないだろうか。
日本でケニア紅茶のことがあまり知られていない理由はおそらく、ダージリンなどの単独のブランドとしてほとんど流通していないからだと思われる。ケニア紅茶の多くはブレンドされて販売されている。だから日本人は知らず知らずのうちにケニア産の紅茶を口にしていることになる。
マウント・ケニアはアフリカで二番目の標高を誇る高山で(一番目はもちろんキリマンジャロ)、山頂部には氷河も存在している。ケニアではこのマウント・ケニアの周辺がお茶の栽培に適しているといわれ、実際に山麓を車で走るとなだらかな丘陵にかなり大規模な茶畑が広がっているのを目にすることができる。
ちなみに紅茶と緑茶は同じお茶の木から収穫される。茶葉を摘んだ後の発酵処理の違いによって、緑茶になったり紅茶になったりするのである。ケニア産の茶葉はミルクティーに向いているとされ、発酵処理後の茶葉は小さくクルクルと丸まっている。
お茶はもともと中国の雲南省あたりの亜熱帯が原産と言われており、日中は気温が上がり夜間は冷え込むような場所が栽培には適している。マウント・ケニア山麓はまさにこの条件にぴったりだった。最初は植民者イギリスの文化であったミルクティーは、その後すっかりケニアにも定着している。
僕が初めてアフリカの土を踏んだ30年ほど前のナイロビでは、食堂で「チャイ・ヌス(半カップの紅茶)」というのが注文できたものだが、ああいう注文の仕方は現在でも受け付けてもらえるのだろうか。
写真・文  船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。アフリカ関連の著書に、「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から」「UJAMAA」などがある。最新作の「フィリピン残留日本人」が第25回林忠彦賞と第16回さがみはら写真賞をW受賞した。
公式ウエブサイト http://www.funaoosamu.com/