Africa Deep!! 62 子どもは大人を真似て生きる術を学んでいく

アフリカ大陸の赤道付近には熱帯多雨林が広がっている。南米アマゾン川流域とならぶ世界でも屈指の熱帯雨林地帯である。森の一番奥深い場所には狩猟採集を生業にしているピグミーと呼ばれる人たちが暮らし、その周辺部に拓かれた村落には農耕民が生活している。
一時期、僕はコンゴ民主共和国の森に暮らすムブティ・ピグミーのもとへ通いつめていたことがあり、そのときは持参したテントを張って一緒に狩猟に参加しながら撮影を続けていた。食べものや生活に必要な物資の大半を森から調達してくるムブティの自然流の暮らし方に、若かりし頃の僕は大いに感化され、また考えさせられたものだ。
やがてそれまで住んでいた東京を離れて、自給自足というライフスタイルに一歩でも近づくため、大分の農村に移り住んだのは今から16年前のこと。完全な自給はまだまだできてはいないが、それでも家族が腹いっぱい安心安全なお米を食べられる程度にはそれなりにキャリアは積んだと思う。
ムブティの暮らしから僕は本当にたくさんのものを学んだ。食べものを自分で調達するというのはそのひとつだが、彼らの社会のあり方で最も印象深かったのは子どもたちの姿だった。森の中には当然、学校などない。しかしどの子どももたいへん利発で、実によく大人の言うことを聞き、手伝う。自分の要求を満たすために泣き喚いたり、ダダをこねたりする姿にはついぞお目にかかれなかった。
男の子も女の子も七、八歳になると大人と一緒にカモシカなどを捕まえる猟に出る。とはいっても、大人たちについていくだけだ。しかし獲物がいる場所では、物音をさせない慎重な言動が必要となるが、子どもたちは大人の真剣な表情に呼応して草陰で微動だにせず無言のまま待つ。日本のこの年齢の子どもにできることではないだろう。そして大人たちの罠のかけ方、獲物への近寄り方、飲み水のありか、槍を振り下ろすタイミングなどを目の当たりにするのである。
野営場では、狩猟用の網を補修する手伝いをしたり、弓矢を手にして遊んだり、捕獲した動物の解体を任されたりする。女の子は母親と一緒に調理の手伝いをし、水汲みにも行く。弓矢には毒も塗りつけるからたいへん危険なものだが、大人たちは注視しながらも取り上げたりはしない。危険なものであっても大人になったら必要になるものだからだ。子どもはそうして生きるための術というものを学んでいくのである。
写真・文  船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。アフリカ関連の著書に、「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から」「UJAMAA」などがある。最新作の「フィリピン残留日本人」が第25回林忠彦賞と第16回さがみはら写真賞をW受賞した。
公式ウエブサイト http://www.funaoosamu.com/

Africa Deep!! 61 サッカーがとりもつ日本とアフリカ 友好と相互理解の可能性

大分県の中津江村という小さな村がかつて日本中の話題をさらったことを覚えていらっしゃるだろうか。2002年のサッカー日韓ワールドカップ。あのときカメルーン代表チームの合宿地に選ばれたのが、なぜか中津江村だった。僕は大分県在住だから中津江村がどのあたりに位置しているか知っているが、コンビニまで車で30分はかかる山村である。
合宿地入りする際、カメルーン代表は大遅刻した。予定よりまる5日遅れて、しかも到着は未明の午前3時というのがいかにもアフリカ的。しかしそれでも人口が1000人そこそこの村にして、なんと100人以上が出迎えたという。おそらくアフリカ人を初めて目にする人が大半だったと思われる。予定していた行事はすべて中止となったが、坂本村長を中心に村を挙げての歓迎ぶりはカメルーン代表の面々をいたく感激させたという。当時のカメルーン代表といえば、同国代表最多得点記録保持者で過去4度のアフリカ年間最優秀選手賞に輝いたこともあるサミュエル・エトオや、Jリーグのガンバ大阪にも所属したことのあるパトリック・エムボマらそうそうたるメンバーが揃っていた。
選手と村人は互いに打ち解け、友情のようなものも芽生えていった。何よりも素晴らしいのは、ワールドカップが終わってからもその交流が続いていることである。村民は全員が「不屈のライオンの会」に会員登録されている。「不屈のライオン」はもちろんカメルーン代表の愛称で、毎年10月には村を挙げて小学生チームの大会「カメルーン杯」を主催する。また国際大会では日本代表を差し置いてカメルーンを応援するという力の入れ方だ。
本当かどうか知らないが、大統領は政府の要職に就く人に「ぜひ中津江村を見てこい」と進言するらしい。それほど両者は固くて深い絆で結ばれているのである。余談だが、平成の大合併で中津江村が日田市と合併することになったとき、本来は「日田市中津江町」となる予定だった。ところが「中津江村」はそれ自体がインターナショナルな地名として認識されているという理由から、「日田市中津江村」に落ち着いたという。
今年久しぶりにカメルーンを旅したとき、あちこちで国民的英雄「エトオ」の名前が入ったユニフォームを着ている人に出会った。あのエトオも中津江村で交流していたのだなと考えると、ちょっとだけ胸が熱くなった。
写真・文  船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。写真家。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、いつのまにか写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。第9回さがみはら写真新人賞受賞。第25回林忠彦賞受賞。第16回さがみはら写真賞受賞。著書に「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から~狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵」「世界のともだち⑭南アフリカ共和国」「カミサマホトケサマ」「フィリピン残留日本人」など多数。元大分県立芸術文化短大非常勤講師。大分県杵築市在住。
公式ウェブサイト http://www.funaoosamu.com/

Africa Deep!! 60 30年ぶりに再訪したカメルーンで山に登る

カメルーン山に登ってきた。西アフリカ最高峰4095メートル。カメルーンは1987年に訪れて以来の訪問だから、実にちょうど30年ぶりということになる。あのときも山に登るつもりで山麓のブエアという街にやってきた。ところが季節は雨季の真っ只中だったので、朝から晩まで豪雨。安宿の屋根がトタン板だったものだから、一晩中ドラムを叩いているような轟音が鳴り響き、ほとんど眠ることができなかったと記憶している。結局、何日か滞在したものの、登山は断念した。だから30年ぶりのリベンジというわけだ。今回はちゃんと乾季にやってきた。でもカメルーン山は大西洋のすぐ近くに聳えているためか、ずっと白い靄がかかっていて全貌を望むことができない。
山麓にはプランタンバナナとアブラヤシとお茶のプランテーションが広がっていた。カメルーン・ティーというブランドの紅茶も売られている。道路がよくなりビルも増えていたが、しかし田舎の方では家の前でおばちゃんがのんびりバナナを売ったり、何をするでもない男たちが昼間からビールを飲んでいたりと、昔とあまり違わない光景が広がっていた。海岸沿いには油田がいくつも立ち並び、中国製のトラックが頻繁に出入りしていた。
ガイドとポーターを雇いさっそく登山開始。天を衝く板根が広がった巨木や、バナナの原種のような木、イチジクそっくりの実がなっている木などを観察しながらゆっくり登る。しばらく登ると朽ちかけた山小屋があり、持参のシュラフを広げた。ガイドが料理も作ってくれる。干した小魚で出汁をとり、人参やトマトピューレを加えてヤシ油で煮込んだソースを、パスタやごはんにかけて食べる。うまみがちゃんと出ていてなかなかのものだ。朝は食パンにジャムやマヨネーズを塗って食べた。
森林帯を抜けるとサバンナになるが、急登が続く。驚いたことに何人もの短パン姿のカメルーン人が走り抜けていく。しかも手ぶらだ。聞くと、年に一度、登山レースが開催されるのだが、そのトレーニングらしい。頂上までの標高差は3000メートルぐらいあるのだが、優勝者は往復4時間程度で完走するとのこと。カメルーン山は活火山で、現在でも山頂近くのクレーターから白煙が噴き出していた。かつて噴火した際に流れ出た溶岩で山頂付近の登山道はごつごつしている。転倒したら怪我では済まないだろう。高額な賞金が出るらしいが、山はやっぱり自分のペースで登りたいものだと思う。
写真・文  船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。写真家。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、いつのまにか写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。第9回さがみはら写真新人賞受賞。第25回林忠彦賞受賞。第16回さがみはら写真賞受賞。著書に「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から~狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵」「世界のともだち⑭南アフリカ共和国」「カミサマホトケサマ」「フィリピン残留日本人」など多数。元大分県立芸術文化短大非常勤講師。大分県杵築市在住。
公式ウェブサイト http://www.funaoosamu.com/

Africa Deep!! 59 宗教という言葉でなんでもひとくくりにはできない

旅先で目にしたものがどういうわけかいつまでも脳裏にこびりついて離れないときがある。エジプト南部のアスワンの街で見かけた壁画がそうだった。エジプトといえば古代の神殿跡などが観光コースになっている。そういうところに保存されている壁画ももちろんすばらしいが、散歩しながらふと目に付いたいつ誰が何の目的で描いたかもわからないような、どちらかというと稚拙な感じがする絵のほうが妙に心に残ったりするものなのだ。
この壁画、よく見ると、胴体は牛で天使のような羽がついている。アスワンの街には「イスラム聖者の聖堂」と呼ばれている泥レンガでできたドーム状の墓が無数にある。それを囲む泥壁にこのような絵がいくつも描かれていた。
天使といえばキリスト教という言葉が思い浮かぶだけで、それがどうしてイスラム聖者の墓と関係しているのか、僕の乏しい知識ではまるで理解できない。イスラム教のことをいろいろ調べていて、天使が何もキリスト教の専売特許ではないことを知ったのは、ごく最近のことである。人々の魂を守り、死後の世界へと導く存在が天使だとすると、よくよく考えてみれば出発点がほぼ同じイスラム教もキリスト教もこうした共通の思想があって当然だ。
五千年前の古代エジプトではさまざまな神様が信仰されていたが、そのなかでも牡牛は崇拝を集める存在だった。僕は不勉強で知らなかったのだが、現代のエジプト人のかなりの割合の人々がコプト教を信仰している。特にアスワンをはじめとした南部に多く居住している。このコプト教というのは、古代エジプトの多神教と初期キリスト教が合体して誕生したもの。だとしたら、この牛のボディを持った天使の壁画は、いろいろな信仰のエッセンスが渾然一体となった姿なのかもしれない。
エジプトはかつてユダヤ教徒を送り出した国であり(出エジプト)、誕生して間もないキリスト教を受け入れた国であり、現在はイスラム教を主に信仰している国である。たくさんの神様や仏様を受け入れてきた日本という国を考えてみればわかるが、エジプトもそういう意味ではたいへん懐が深いところだといえるだろう。
不幸なことに、21世紀は宗教対立が戦争を引き起こす事態となってしまった。しかし、宗教が変遷してきた歴史をほんの少し振り返ってみればわかることだが、人間の唱えることに絶対なんてものは存在しない。ユーモラスな牛の天使像はそういうことも教えてくれているような気がする。
写真・文  船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。写真家。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、いつのまにか写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。第9回さがみはら写真新人賞受賞。第25回林忠彦賞受賞。第16回さがみはら写真賞受賞。著書に「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から~狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵」「世界のともだち⑭南アフリカ共和国」「カミサマホトケサマ」「フィリピン残留日本人」など多数。元大分県立芸術文化短大非常勤講師。大分県杵築市在住。
公式ウェブサイト http://www.funaoosamu.com/

Africa Deep!! 58 子どものあそびを観察するのもアフリカ旅の醍醐味のひとつ

先日、ミャンマーの少数民族が暮らす地域を訪ねたとき、小学生ぐらいの女の子が地面に線を引いて「ケンケンパー」をしていた。こうした「子どものあそび」には当然、地域ごとの特徴があるものだが、どういうわけか世界中で共通したあそびというのも結構あるらしい。代表的なものといえば、「あやとり」や「なわとび」だろうか。だれしもたぶん子どものころにはこうしたあそびを経験していると思うが、民俗学者の研究によると、そうしたあそびは単一起源ではないという。つまりどこかで発生して伝わったというのではなく、自然発生的に世界各地であそびが生まれたらしいのだ。
あやとりはいっけん女の子の遊びのように思えるが、そうでもないらしい。僕も子どものころは熱中してやっていたことがある。たしか「ホウキ」とか「ハシゴ」とか呼ばれる形を作ることを競っていた。ひとりであそぶこともあれば、ふたりで交互に形を作っていく場合もある。写真のようにアフリカではエチオピアで見かけたことがあったし、コンゴ民主共和国のイトゥリの森で暮らすムブティ・ピグミーの女の子たちがやっていたのを見たこともある。
僕は自分の子どもを観察していて、あそびが子どもの仕事なのだな、と実感することがある。あそびを通じて子どもは成長していく。人間が成長して大人になってゆく過程というかシステムは、おそらく人種や民族に関係なく世界中で同じなのだろう。そういう成長の過程であやとりなどのあそびも自然発生的に生まれるのではないだろうか。そう考えると、たかがあやとりというあそびも、幼少期の言語の習得と同じくらい脳の発達に関して大切なものなのかもしれない。
もし生まれた直後からプラスチックでできた玩具などが与えられてしまったら、あやとりというあそびとも無縁のままで子ども時代を過ごしてしまうような気がする。アフリカを旅したことのある人はまず子どもの数の多さに驚かれたと思うが、ありあわせの廃材や空き缶などを利用してつくった玩具であそんでいる姿を目撃された方も多いだろう。ちゃんとハンドルが付いた小さなトラックを得意げに運転している男の子もよく見かける。思わず自分の子ども時代に重ね合わせて懐かしさを感じる旅人も多いはずだ。そういう姿を目撃すると、なぜかホッとして救われた気持ちになる。と同時に、ゲームばかりしている日本の子どもは大丈夫か、と心配になってしまうのである。
写真・文  船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。写真家。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、いつのまにか写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。第9回さがみはら写真新人賞受賞。第25回林忠彦賞受賞。第16回さがみはら写真賞受賞。著書に「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から~狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵」「世界のともだち⑭南アフリカ共和国」「カミサマホトケサマ」「フィリピン残留日本人」など多数。元大分県立芸術文化短大非常勤講師。大分県杵築市在住。
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