子象

我が家は、親戚や友人などの小さい子供たちの出入りが多いのですが、子象が木の枝で遊んで(?)いるのを見て、人間の赤ん坊の仕草と同じようで、ああやって子供達は手(人間)や鼻(象)の使い方を覚えていくんだな~って思いました。
01
02
03

Phinda(ピンダ) Private Game Reserve

南アフリカでは、クルーガー国立公園とそれに隣接する、サビサンド私設保護区などがサファリエリアで有名ですが、それ以外にも、幾つもの保護区があり、その一つ、Phinda(ピンダ) Private Game Reserveはサイや希少種の鳥などで有名な所です。勿論サイ以外のビッグファイブや、他の動物達もいます。レオパードもいますが、レオパードはフェンスを飛び越せ、しかも行動範囲が広いので、いつでもいるとは言えないと正直に言っていました。同様に、ハイエナはフェンスの下を掘って隣に出てしまうことがあるので、これまたいつでもいるとは言えないとか。ピンダの隣は国立公園、他の私設保護区、農場などで、レオパードやハイエナは出たり入ったりしているようです。
01
02
03
04

白サイは沢山います。クロサイもいますが、クロサイの方が臆病だかで見にくく、私も見ましたが、日没後で、しかも走っていたので写真を撮ることができませんでした。
ピンダには素敵なロッジが数軒あります。
05
06
07
08

2010.12.23発 キリマンジャロ登山 マラング・ルート10日間 前編

現地タンザニアも雨季が終わりを告げ、いよいよ本格的なシーズンの到来を迎える「神の家」キリマンジャロ。言わずと知れたアフリカ大陸の最高峰です。これからのシーズン、挑戦を考えていらっしゃる方も多い事と思います。昨年時のツアーを振り返って、キリマンジャロ登山、マラング・ルートの行程をご紹介します。道中は山小屋も完備されていて、最もポピュラーなルートであり、登山客も多い人気のルートです。
まずは、12月24日クリスマス・イブの午後に、ケニアの首都ナイロビへと飛行機は降り立ちました。キリマンジャロがあるのはお隣の国タンザニアですが、第一日目はケニア側から麓の街を目指します。途中、ケニア⇒タンザニアと国境を跨ぎ、車を乗り換え、初日の宿泊地アルーシャの街までの道のり約5時間半をひた走ります。
01
到着後、翌日からの登山の行程を説明した後は、皆さんの自己紹介と共に、お酒を酌み交わします。だんだんと登山前夜の決起集会のような様相を呈してきました。各自、山に対する情熱と意気込みを語り、タンザニアの銘柄、その名も「キリマンジャロ」ビールを一気に飲み干します。
02
翌朝はあいにくの曇り空でしたが、ホテルを出発して走ること数十分、曇り空の中にうっすらと姿を現したキリマンジャロの姿に、思わず息を飲みます。今回の旅で、いざこれから登るキリマンジャロを初めて目の当たりにした瞬間でした。朝やけの中にうっすらと聳える、その威容を目の当たりにして、車内は俄然盛り上がります。お客さんも、皆さん改めて気合いが入った様子で頼もしい限り。
03
麓の街、モシを通過してマラング・ゲートの入口へ。ここで、今回の山行をサポートしてくれる現地ガイドやポーター達と合流します。チーフを筆頭にガイドが4人、ポーターが20人、コックが2人という万全の体制でのサポート。一人一人が屈強な山男たちです。手早くお客さんの荷物も袋に詰め込んで、出発前の最終チェックです。中心で指示を出している横縞のシャツを着ているのが、今回の腕利きチーフガイドです。
04
ゲートで入山手続きを済ませて、早速登り始めます。初日のマンダラ・ハットまでは、昼食を入れて約4時間。森林地帯を歩きます。この日の目的地の高度は約2,700mですので、まだまだハイキング気分。
05
前夜に雨が降ったと思われ、地面は多少ぬかるんでいましたが、ひんやりとした深い森の中を歩くのは、非常に気持ち良く、また目に映る幾重もの緑の美しさは絶品です。登山道はしっかりと整備されているものの、この深い大自然を全身で味わうことができるのは、この上ない贅沢。汗も心地よい。1時間ほど歩いて、5分休憩、このペースを守ってゆっくりと歩きます。
06
16時前には、マンダラ・ハット到着。時間があるので近くにあるクレーターを見物に行ったり、突如現れたブルーモンキーを追いかけたり、ポップコーンとコーヒーで一休みしたりと思い思いに過ごします。
07
マンダラ・ハットは4人1部屋の山小屋が複数あり、大きな食堂小屋が1棟、トイレと水場はしっかりとしたものが備え付けられています。今夜の食事はクリスマスということで、コックが腕をふるい、地元チャガの人達の伝統料理マチェリラ(バナナの煮込みシチュー)を作ってくれました。ピリピリをかけて食べると絶品!アッという間に鍋は空になりました。
08
翌日は、さらに1000m近く高度をあげ、第2ポイントのホロンボ・ハットを目指します。朝食後、8時頃に出発。1時間ほども歩くと森林地帯が終わりを告げて、眼前が開けたところで、彼方に万年の氷河を抱いた山頂が見えました。
09
キリマンジャロの懐に入ってからは、山頂がどこにあるのかもわからないままに進んで来たので、ホッと一安心すると同時に、現実的な山頂までの距離が実感として湧いてきて、一抹の不安が頭をよぎります。「あんなところまで、本当にいけるんだろうか…」
10
しかし、歩き始めると不安な気持ちは吹き飛びます。見た事のない植物の数々、たまに姿を現す動物、アフリカ最高峰の圧倒的な大自然に抱かれて、一歩一歩を進んでいくと、いつの間にか小さな不安などどこかへ消し飛んでいました。山を歩く事そのものが、何しろ楽しいのです。
11
そうこうしている間に、15時前にはホロンボ・ハットに到着。高度は3,720m。いつの間にか富士山とほぼ同じ高度まで来ていました。うっすらと靄に包まれたホロンボ・ハットはこれから山頂を目指す者と、既に成し遂げて降りて来る人々との交差点、様々な国籍の人間が入り乱れて、活気に満ちています。山小屋は6人1部屋体制の大きなものへと変わり、ロッジの周囲にはテント組も何張りもあり、登山のベースキャンプの雰囲気に満ちています。昨夜のマンダラ・ハットでの、のんびりとした雰囲気からは明らかに変わってきつつあります。
12
さて、登山3日目から4日目にかけては、最大の山場です。夕方までに、中継地点のキボ・ハットを目指し、仮眠を取った後は深夜に山頂アタックです。朝の時点では、皆さん元気ハツラツ。気合いも入れ直して、まずは高度4,700m地点のキボ・ハットを目指します。
13
暫く歩くと、植物の姿が消え始め、荒涼とした砂地が広がり始めます。ラスト・ウォーター・ポイントを越え、しばらく歩くと植物の姿が無くなり、砂と岩だけの世界へと一変します。右手には、雄々しく聳える第二のマウェンジ峰、切り立った山容に見とれてしまいます。途中、ルート上にて昼食。岩に腰かけ、乾いたサンドイッチを流し込む。さすがに、皆さん口数が減ってきました。緩くて長い傾斜を登り切ったところで、眼前が開け、そこにははっきりとキリマンジャロ山頂・キボ峰が姿を現しました。
14
もう一息です。見えてからが長い!!
15
15時過ぎには、最後の山小屋、キボ・ハットに到着。この辺りまで来ると、さすがにペースにバラつきが出てきてしまいましたが、チーフガイドを含め、現地スタッフは万全のフォローで全員を無事にキボ・ハットまで案内します。標高4,700m、さすがに頭がチラチラ痛み出します。このキボ・ハットは、山頂アタックの為の中継地なので、10名前後で1室の大部屋です。
16
上を見上げると、いよいよ射程距離に捉えた山頂。期待と不安を半分ずつ抱いて、夜が更けるのを待ちます。今まで歩いてきた山道を振り返って見やると、背後に聳えるマウェンジ峰も迫力満点。
17
今夜の山頂アタックに向けて、メンバーの緊張感も高まります。なかなか寝付けない…装備は万全か…天候はどうなのか…食事が喉を通らない…高山病の症状も出はじめた頭の中がぐるぐる廻ります。
18
23時頃に起床して、軽食を口に入れて、各自最終チェックをします。深夜0時ちょうどに、いざ山頂アタック開始。さて、無事に登頂できるのか!?
※一部、写真を大都 修 様より提供していただきました。ありがとうございました。
後編につづく
生野

2011.03.18発 エチオピアの大自然と民俗、世界遺産、ゆったり・たっぷり16日間 後編

エチオピア北部の旅もいよいよ後半戦。アクスムを出発してから、次の目的地のゴンダールへ向かいます。出発してしばらく走ると、舗装道路が終わりを告げ、セミエン山塊に向かって荒れたオフロードを進んでいきます。所々、舗装工事は行われているようですが、どうにもペースはのんびりしたもの。所々、スリップしそうな崖道が続きますが、我らがマイクロバスのドライバーは鼻歌交じりですいすいと運転します。1日かけて目的地のゴンダールへと到着。

マイクロバスと、我らがドライバーのアビィさん
マイクロバスと、我らがドライバーのアビィさん

この旅いちばんの悪路且つ長時間の移動でしたが、途中でエチオピアのソウル・フードであるインジェラも食べて乗り切りました。しかし、エチオピア最高峰であるラス・ダッシェンを含めたセミエン国立公園の景観は、これぞ山岳国エチオピアの真骨頂とも言える、絶景中の絶景でした。今回の旅では横切るだけでしたが、セミエン国立公園をじっくりとトレッキングするツアーもお奨めです。『エチオピア セミエン国立公園トレックとラス・ダッシェン登頂 12日間』こちらも是非。
02
さて、翌日は1日かけてゴンダールの街を見て廻ります。エチオピア北部の旅では、ここも外せないところ。17~18世紀にかけて都が築かれた古都ゴンダール、どこか落ち着いた雰囲気を携えた街です。この街での見所は何と言っても、世界遺産にも登録されているファシリダス皇帝の宮殿跡です。まるでヨーロッパの古城のような優雅な宮廷は、400年前のエチオピアのものとは思えません。皇帝1人につき城を1つ建設したそうで、ジャカランダの花が咲き乱れるお庭とセットで、とても優雅な空間でした。
03
もう1つゴンダールで見所なのは、天井一面に天使が描かれている事で有名なデブレ・ベレハン・セラシエ教会です。外見だけを見ると、よくある古びた教会なのですが、1歩内部に足を踏み入れると一面の壁画と天井画に圧倒されます。何ともフォトジェニックな教会でした。
04
陸路の旅は、まだまだ続きます。次なる目的地はバハル・ダルです。ナイル川の源流と言われるブルーナイル、そしてその水が流れ込む雄大なタナ湖の湖畔に栄える街です。まずは、近郊の村を抜けてブルー・ナイルの滝を目指します。滝まで歩く事30分。地元の言葉でTis Abay(ティス・アッバイ) 意味は、Tis=煙 Abay=父 又は、ティス・サット 意味は、ティス=煙 サット=水と呼ばれている滝が目前に。かつては幅400mもあったそうですが、上流に水力発電所が出来た影響と、今回は乾季だったこともあり、滝の水量は控えめです。ただ、遠くからでも目にする事の出来る水煙と、唸りを上げる轟音はさすがに目を見張りました。
05
滝への軽いトレッキングを終えた後は、ボートに乗り換えてタナ湖へと繰り出します。このタナ湖には小さな小島が幾つもあり、そこには古びた修道院がたくさんあります。先に訪問したアクスムにあった『アーク』の伝説は、もともとこのタナ湖の修道院から始まっていて、エチオピアの北部、エチオピア正教の神話世界を思索する旅では、このタナ湖の修道院巡りも避けては通れません。かなりの年代が経っている修道院ですが、内部の壁画は色鮮やかに残っています。
06
そういえば、上陸して最初に目に飛び込んで来たのが、細長く藁を束ねた謎の物体。一体何だろう?
07
次の島へと再びボートで渡る際に謎が解けました。
地元の人達が島同士を行き来する為の渡し船だったのです。何ともまあ…。
08
バハルダルでの滞在は、このエチオピア北部の旅の終盤にふさわしい盛り沢山な内容でした。
最後の夜には現地のガイドさんの計らいで、嬉しいサプライズ。誕生日の方がいらっしゃった為に、子羊の丸焼きと焚火でお祝いです。
09
アディスアベバから始まって、ラリベラ⇒メケレ⇒アクスム⇒セミエン⇒ゴンダール⇒バハルダルと、約2,700kmの長い旅路を経て来ました。エチオピア北部をぐるっと一周して、再び首都アディスアベバに戻ります。最後は、あまりあくせくと観光して町を走り回ることもなく、1泊してゆったりとこの長い旅路を振り返る事が出来ました。最終日に空港へ行く前に、最後に聖ギオルギス教会に立ち寄りました。最後の皇帝ハイレ・セラシエが即位した場所でもあります。アディスアベバきっての文化遺産でもあります。
10
この教会では、たまたま昼間の礼拝の時間に当たりました。今までの各土地での教会見学の際は、内部の見学が出来なくなってしまうのであえて礼拝の時間は外して観光していました。ですが、この旅行で初めて目にした礼拝の様子は、宗教の違う我々も、どこか真摯な気持ちにさせられてしまうような、荘厳な雰囲気に満ちたものでした。咳払い一つためらわれるような、張り詰めた緊張感に満ちていて、騒がしいアディスの街の中で、この場所だけがまったく違う時間が流れているようでした。旅行の最後に、エチオピアに生きる敬虔な信仰心の真髄を覗いたような気がします。
エチオピアの北部を2週間かけて一回りしてきましたが、今回の旅行はこの国の3分の1ほどに過ぎません。南部エチオピアには、今も独自の文化・風習を残す様々な民族の世界と大自然も待っています。北東部に目を向ければ、地球上で最も暑くて苛酷な地と言われるダナキル砂漠と活火山もあります。是非、また違った顔のエチオピアも覗いてみてください。
生野

2010.09.12発 南部エチオピア オモ・マゴ探索隊15日間 その4

ハマーには、昔からのしきたりで、豊穣を祝う“牛跳びの儀式”というものがあります。この儀式は、少年が大人になるための儀式も兼ね備えており、横向きにした牛を8~10頭並べ、その背中に飛び乗り、飛び石を渡るように渡っていくというもの。これを3~4往復ほど見事渡りきると、その少年は民族の中で大人として認められるのです。今回はラッキーなことに、この儀式を見学することができました。
牛跳びをする前には、このメインイベントを盛り上げるさまざまな催しがあります。まずは女性達のダンス。この溢れんばかりの躍動感、伝わるでしょうか?女性達は手に笛を持っていますが、これをずっと吹きながら何時間も踊り続けます。すごい体力。
01
このダンスの途中に、“ムチ打ちの儀式”なるものがあるのですが、これは木の皮を剥いで作った細いムチで、夫が自分の妻を打つというもの。もちろん、打たれた女性の背中や腕などには痛々しいミミズ腫れが残りますが、このミミズ腫れがたくさんあるほど、夫に愛されているという証なのです。
ところで女性達が身に付けている首輪のような鉄製のネックレス、気が付いていただけましたか?これは既婚女性の証です。ハマーを含むオモ谷の民族は、今でも一夫多妻であることが多いのですが、中央に取っ手のようなものが付いているのが第一夫人。取っ手が無いものは第二または第三夫人など。既婚中はこの重い鉄のネックレスをはずすことなく身に付けなければなりません。そして、万一、夫に先立たれ時は、はずさなくてはならないのです。マリッジ・リングならぬマリッジ・ネックレス。ネックレスといっても、それはかなりの重量感ですよ。日本人なら確実に肩がこる代物です。
こちらは第一夫人。
02
女性が4人並んでいますが、左2名は第一夫人、右2名は第二もしくは第三夫人か・・・。
03
未婚者はこのネックレスをしていません。
04
しかし、最近はこの風習を誰しも必ず守っている訳ではないのです。どの民族もそうだと思うのですが、昔からの習わしは、時代の流れと共に確実に変化しつつあるのかもしれません。
ダンスの会場から更に広い場所へ移り、メインイベントへ向けて、お祭りは佳境を迎えます。この日のために髪型をセットした人々は、顔にペイントを施し、続々と牛跳びの会場へ。
05
こんなシブイ長老が見守る中、こうして牛達が並べられていきます。
06
そして、皆が見守る中、一糸まとわぬ18歳の少年が、ジャーンプ!!
07
おーーーっと、途中で落ちちゃいましたよ。大丈夫でしょうか?再び牛の背中によじ登って続行。しかし、余りの足の痛みに顔をゆがませています。何とか4往復を成し遂げたその少年は、激痛に顔をしかめ一歩も歩けません。もしかしたら、足を骨折してしまったのかもしれません。
これは想定外の出来事。 しかし、旅にはそんなハプニングもあります。その後、お祭りの盛り上がりは一転し、彼の周りには、地元の人、観光客がわらわらと集まり、足の治療へ当たることになりました。たまたま観光客の中に医師がいて、応急処置を施した後、少年を車でどこかへ運んで行きました・・・。私達を含む残った者は、なんとも煮え切らないままに解散。あの少年はどうなったのでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・
翌日、ハマーの村の一つを訪れました。そこでビックリ!! 昨日、足を負傷したあの彼がいるではないですかっ!?髪の毛は短く刈られ、牛皮の服を着用し晴れ晴れとした笑顔。この2つの特徴はハマーでは大人として正式に認められた証なのですが・・・、おまけに今日は普通に歩いてるーって、え~っ!?
大事に至らず、それはとっても良かったのですが、昨日の出来事は夢だったのでしょうか?ご馳走用の牛やヤギを解体しているお祭りモードの村から、何とも複雑な気持ちでロッジへ戻ったのでした。これから彼は財産を蓄え、近い将来、結婚できる日のために準備を始めます。その晴の日には、こんな事態にならないことを心から願います。
そして、エチオピア最南西端の「オモラテ」という町。ケニア、スーダン国境までそれぞれ20km弱ということで軍の施設があり、のんびりした田舎でありながらも、どこか張り詰めた空気の漂う場所です。このオモラテから船でオモ川の対岸へ渡ると、『ゲレブ』(または“ダサネッチ”)と呼ばれる人々の村に到着します。川渡りはこんな感じです。
08
ゲレブの住む場所は、すぐ目の前に川が流れる谷の一番低いところ。川の最終地点、トゥルカナ湖とほぼ同じ標高の低地であるためか、どこよりも暑くて埃っぽい土地です。彼らも半牧半農ですが、牧畜の割合が高く、エチオピアが社会主義政府であったここ10~20年前まで、牛の餌場をめぐり、ハマーやカロとの部族間同士の争いが絶えなかったのだそうです。現在はこの問題に政府が介入しているので、死闘の争いには至りませんが、今でもハマーとは犬猿の仲なのです。
カロもそうでしたが、ゲレブもオモ川で漁をします。しかし、オモ谷に住む民族の間では、昔からこの川での漁はタブーとされてきました。その理由は諸説あるらしいのですが、川は生活に欠けがいの無い水を運んでくれる神のような存在だから、神聖な川に生息する魚を食すことは許されなかったのか?それとも、川魚には寄生虫がいる可能性があるので、食べると身体に害をもたらす危険があるということを、昔から知恵として伝えられてきたのか?もし本格的に研究している方がいたら、是非、そのご意見を拝聴してみたい興味深い事がらです。
ゲレブの人々。
09
ゲレブの家は、基本的に木や葉っぱ、皮などで作られた簡素なものですが、一部、トタン板が使われたものがあります。これは、トタン部分が多いほど裕福な証なのだそうですが、この炎天下の土地では、木や葉っぱ、皮の家の方がよほど涼しく快適だと思うんですがね。
そして、こちらはゲレブと仲の良い『エルボレ』という民族。農業に比重を置き、イスラム化している人々が多いのです。ターバンっぽい布使いがそんな雰囲気を醸し出しています。
10
以上、駆け足でご紹介したオモ谷に住む民族。彼らの魅力はここでは書ききれません。そして、当たり前ですが、その時々で出会える人々、置かれている状況は、太古からの伝統、文化を引継ながらも少しずつ変化を遂げています。今現在の、今だからこそ感じることのできるオモ谷の民族の魅力を、是非、皆さんも直接体感してみてください。
今野