Africa Deep!! 41 砂漠の民に潜む優しさとしたたかさと

エジプトのカイロ郊外で開かれているラクダ市を見に行ったときのこと。
ラクダは気性が荒く、気に食わない人間が近寄ると、すごく臭いゲップを吐きかけてくる、と聞いていたので、最初は用心して遠巻きに眺めていた。ラクダは前足を縛られ、逃げられないようにされている。
売買する人たちは皆ターバンを巻き、いかにも砂漠の民といった風の男だ。市が始まってずいぶんと経つのに、男たちはひそひそと静かに話し合ったり、水煙草を悠然とくゆらせている。そこのジャパニ、チャイでも飲んでいけと誘ってくれる人もいる。
砂漠の民は外の世界からの旅人には優しく物静かだ。しかし、それにしてもいったいいつ取引が始まるのだろうか。と、見物するのも少々飽きてきた。暇なので、ラクダは本当に臭いゲップを吐きつけるのか、棒でつついて試してみようかと考え始めたときだった。
突然、背後から激昂した怒鳴り声が浴びせかけられた。思わず振り返ると、ターバンの男がふたり睨みあいながら、いまにも掴みかからんばかりの勢いで互いにののしりあっている。いったい何事が起きたのだろう。
喧嘩をしているふたりの男は顔を真っ赤にし、拳を振り上げながら唾を飛ばしている。周囲の人たちはしかし、仲裁に入るわけでもなく、さりとて無視するでもなく、成り行きを静かに見守っているだけだ。このふたりが単にラクダの取引をしているのだと気がついたのはそれからしばらくしてからのことである。それだけ売買の仕方は激しかった。ぼくたち和をもって尊しとする東洋の人間ではとても歯が立ちそうにない。
しかし、取引が終了したとたん、ふたりは旧知の親友のような親密さで、互いに肩を抱き寄せ、手をつなぎながら満面の笑みを浮かべている。そして何度も何度も抱擁を繰り返す。さきほどまでの激しさはどこにもない。ふたりの表情のあまりの急激な変化の裏に、ぼくは砂漠の民のしたたかさを見る思いだった。
写真・文  船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。写真家。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、いつのまにか写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。第9回さがみはら写真新人賞受賞。第25回林忠彦賞受賞。第16回さがみはら写真賞受賞。著書に「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から~狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵」「世界のともだち⑭南アフリカ共和国」「カミサマホトケサマ」「フィリピン残留日本人」など多数。元大分県立芸術文化短大非常勤講師。大分県杵築市在住。
公式ウェブサイト http://www.funaoosamu.com/

高達潔のソウェトウオッチング45 ソウェト・ツアー事情 その11

歴史あるフリーダム・スクウェア

ソウェトと、旧カラード・タウンシップのエルドラドパークとの間のクリップタウンに、ウォルター・シスル・スクウェアという広場があります。ここはソウェトの淵(外側)にあたり、アパルトヘイト時代でも、黒人、白人、インド人などが入れる場所でした。
そのため、1955年6月26日、アフリカ民族会議(ANC)を中心として、南アフリカ・インド人会議、南アフリカ・カラード人民機構、民主主義者会議(ほとんどが白人)、南アフリカ労働組合会議の各団体代表者3,000人が南アフリカ中から集まり、人民会議でフリーダム・チャーター(自由憲章)を採択した場所として、フリーダム・スクウェアと呼ばれていました。(泊まりがけの集会でしたが、翌27日に警察に解散させられたそうです)。

政府が大改造してウォルター・シスル・スクウェアに

ウォルター・シスル・スクウェア
ウォルター・シスル・スクウェア

私が2001年にソウェトに入り始めたころのフリーダム・スクウェアはただの空き地で、隣接した商店街クリップタウンのためのタクシーが集まっているという感じでした。横を通る時に、ツアーガイドから「この場所でフリーダム・チャーター云々」という話を聞かされる程度でしたが、2004年の選挙の前に、政府が大金を投じ、この広場を大改造しました。
ゼネコンにコンクリートで固めさせ、グレート・ジンバブウェ遺跡にあるコニカルタワーを模したモニュメント(その中に自由憲章が書かれている)、自由憲章の10カ条を表すつもりの10本のピラー(言われないと意味は分らないが、言われても大金を投じた意味が理解できない)、コミュニティー・ホール、4星ホテル(開業当時はホリデイ・イン・ソウェトで、今はソウェト・ホテル)などを建て、店舗スペースを造りました。
10本のピラー
10本のピラー

路上販売していたおばちゃんたちは追い出され、販売場所を作って利用料を徴収するようにし、観光客が来ると目を伏せて仕事をしているフリをして案内したがらない職員のいる観光案内所もできました。そして、その名称は、ANC長老達のご機嫌取りの様に、ANCのリーダーであった故ウォルター・シスル氏に捧げる広場と変えられたのです。
線路を渡った所にあるスクウォッター・キャンプのNPOで活動しているメンバーは、大手ゼネコンが外から労働者を連れて来て建設しているのを横目で見て、これはディベロップメント(開発)ではなく、単なるビルディング(建設)だ、地域には何ももたらさないと不満を言っていたのを今も思い出します。

時間があれば自由憲章関係の博物館へ

観光案内所の愛想の無さもあり、時間にゆとりがないソウェト・ツアーではわざわざ立ち寄る所とも思えず、ここにある自由憲章関係の博物館も以前は素通りしていました。しかし、こちらに来て何年も経ってアパルトヘイトの歴史も以前よりは知ったせいか、昨年立ち寄ってみたら、この博物館も中々捨てたものではないと見直してしまい、最近では時間があればソウェト・ツアーの途中で立ち寄るようにしています。
自由憲章は、アパルトヘイト政策に抵抗して、全人種平等の民主主義(リベラリストからの共産主義的という批判などもあったが)をうたい、そのために当時の政府はそのメンバーの中からネルソン・マンデラ、ウォルター・シスルを含む156人を逮捕して、反逆罪で告発しました。この自由憲章が、ANCの基本理念になり、今のこの国の民主主義憲法の元となったのです。(反逆裁判に関しては、ヨハネスブルグのニュータウンにあるミュージアム・アフリカに展示があります。アパルトヘイト博物館にも自由憲章の展示はありますが、あまり詳しくはありません)。

ソウェト(Soweto)
南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグ市にある地域。地名の由来は“South Western Townships”(南西居住地区の短縮形)。アパルトヘイト政策によって迫害されたアフリカ系住民の居住区として知られる。観光では、ソウェト蜂起の際に警官に射殺されたヘクター・ピーターソンや反アパルトヘイト運動を率いたネルソン・マンデラの記念館が有名。

風まかせ旅まかせ Vol.7 「旅行は人を元気にする!」を信じて――。

3月11日、ビルの9階にある弊社でも立っていられないほどのひどい揺れに襲われました。テレビやパソコンが床に落ち、棚の書類が辺り一面に散らばり、社内も騒然としました。5分ほどして揺れが収まったころ、遠くに見えるお台場のビルから黒く巨大な煙が立ち上り、しばらくすると上空にはヘリコプターが何台も飛びまわり、屋上に出ると近くに見える東京タワーのアンテナが曲がっていました。
床に落ちたテレビを戻して電源を入れると、「震源地は宮城県沖…マグニチュード…」。揺れの激しさから、震源は関東地方と勝手に思い込んでいたので驚きました。その後も激しく余震が続き、落ち着く間もなく大津波が東北の沿岸部を襲いました。
3月26日に1年間通った塾の卒塾式がありました。旅行産業の経営を様々な角度から学び、また各界の講師を招いて勉強しようという塾でした。震災や原発の問題もあり、華やかな式にはなりませんでしたが、ひとついい話がありました。4月23-24日に予定していた1泊2日の卒塾旅行を「風評被害で宿泊者が激減している地域の宿で行おう」という提案です。同じ旅行産業に関わるものとして、少しでも応援できればという気持ちで、塾生全員が賛成しました。その話を弊社のバイクツアースタッフに伝えると、5月28-29日に予定していたスタッフツーリングを急遽、福島ツーリングに変更し実施することになりました。毎年30人近くのお客様ライダーが参加してくださる1泊ツーリングなので、いわれのない風評被害で経営が苦しい宿に、少しでも喜んでもらえればと思っています。
旅行会社である我々が今できることは何か…。震災以降考えてきたことですが、「旅行は人を元気にする!」を信じて、これからも元気になる旅を企画していきます。節電でエアコンも使わず、薄暗い社内ですが、元気のでる旅の相談承ります!! ぜひ、お立ち寄りください。社員一同、元気にお待ちしております。
写真 : 福島県のシンボルの一つ磐梯山

2011.02.25発 究極のタンザニア・サファリ 16日間

早この“究極”シリーズも今回で第15弾となりました。最初の企画では12日間でしたが、その後催行を重ねる毎に1日づつ増えて、とうとう16日間となってしまいました。
何故“究極”と称するかですが、正にサファリの王国、タンザニア北部のセレンゲティ国立公園での滞在日数が巷ではたったの2泊や3泊ですが、道祖神特選ツアーの代表“究極のタンザニア・サファリ”では何と7日間と長期に渡る事。今や公園規則が厳重な状況で、オフロードが可能な貴重なンドゥトゥ地区(ンゴロンゴロ地区包括)滞在3日間を入れて、合計10日間のセレンゲティ周辺地区でサファリ三昧だからです。
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(左 : モル・コピエ)
(右 : う~暑いと日中のヒョウ)
対象者は当然、本当のサファリを経験したい方、もしくは既に経験し、更なる段階のディープなサファリを求めて止まないリピーターの方々、タンザニア・ファンの方々を対象としています。最近は富に、コアなセレンゲティ国立公園のファン、カメラの被写体を猫科、特にヒョウ等に的を絞ったアマチュア写真家の方々が多くご参加され、昨年2010年は13名での催行と最初の目的から外れてしまう程の巨大なツアーとなってしまいましたが、今2011年はかなりコンパクトに濃いお客様方少人数での催行となりました。
以下は正に3月12日(土)、大地震の起きた翌日に日本に帰国した今回の“究極のタンザニア・サファリ・ツアー16日間“の報告です。この厳しい状況下の日本(この画面ですら見る事の出来ない方々もいらっしゃるとは思いますが・・・)、何とかお心・気持ちだけでも癒して頂けると嬉しいです・・・。
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(左 : 時々遠くを眺めては・・・。)
(右 : シマウマの大群に続きやっとヌーがお出まし。)
このツアーで此処数年頭を悩ませている事柄は、ケニア・ナイロビ国際空港から陸路で国境を越え、目的国タンザニア第2の都市、サファリや登山の基地アルーシャまで向かう道程です。しかしその悪路模様は相変わらずでした。タンザニア側はアルーシャに入る手前部分を僅か残すのみとなりました。政府発表ではこの7月に完成とか??しかしケニア側の昔からあるセメント工場前、バンブリ・セメントと新しく出来たモンバサ・セメントの周囲は恐ろしい程の悪路です。マサイ・マラ国立保護区への道路が慢性的に悪路になっている事を考えれば、むしろ他の部分の工事の仕上がりの速さは逆に尋常ではないのかもしれません(笑)。
国境ナマンガは19時頃の時間帯は通過客の数も少なく(お土産店が閉店しているので、お手洗い借用に多少不便がありますが)、たまに指紋摂取されたりカメラ撮影がある場合以外、他のチェックは一切なしで何の支障もなく通過が可能。しかもこのツアーでは国境で車を乗り換える手間も省いており、お客様方は車にお乗りになっているだけで済みます。
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(左 : 前面には水場とライオンが・・・。)
(右 : ちょっとでも高見、蟻塚の上のチーター。)
このツアーでは、セレンゲティ国立公園周辺でのサファリを中心にお楽しみ頂く事が最大限の目的なので、最終日は軽飛行機でセレンゲティから一気にアルーシャへ戻ります。そのため必要な荷物を形状の変化するソフト・バックへ入れ替えて(重量15kg)頂きます。ソフト・バックは皆さん面倒に思われるでしょうが、実は大変楽です。とにかくパッと荷物を突っ込めるからです。勿論それなりに余裕が無いと荷物詰めに苦慮しますが・・・。ハード・ケースはアルーシャの前後泊するホテルへ預けて行きます。この軽飛行機利用も道祖神のツアーでも2本しか設定されていません。
日本出発してから3日目、いよいよタンザニアの世界自然遺産、ンゴロンゴロ自然保護区へ向かいます。世界で唯一、火口原にあたかも保護・飼育されているかのように(キリンとインパラを除く)野生動物達が棲息。クレーター周辺地区への移動(雌と仔供は移動しません)を朝・晩毎日繰り返しています。
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(左 : 正しくンゴロンゴロでゴロンゴロン!)
(右 : ンゴロンゴロの黒サイの親仔)
直径平均16~20km、段差平均500mのクレーターにチーター、時に、ヒョウまでの突然の出現にはわくわくします。他社では殆どがンゴロンゴロ止まりで、セレンゲティまで行かないです。箱庭でも確かに野生動物は宝物ではありますが、後少し僅か?140km程の距離に位置する壮大な大自然の野生動物の宝庫、セレンゲティ国立公園まで行かないなんて勿体無い限りです!折角後200km 、全行程の半分近くに来ているのに・・・。
ンゴロンゴロの黒サイは40数頭までに増えたと昨年9月に聞きましたが、今回はたったの4頭(親仔連れと成獣2頭)しか観察出来ませんでした。いつぞやは11頭がずらっと一列に並んでいて壮観でした。又最高22頭を観察した事も・・・。サイは寒くなるとすぐねぐらに戻ってしまい、中々姿を表しません。今回は此処数年と比較してやっとアフリカらしさを取り戻したかのような30度を超える暑さでした。通常の出現場所は夕方16時頃、ソパ側のルックアウト・ポイント周辺で草の中に寝ています。たった半日のクレーター・サファリでも雨で道がぬかるんでいない限りは、ほぼ全周可能なので、諦めずじっくり捜索(!)する事をお勧めします。
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(左 : ダチョウの仔供達)
(右 : キリンのネッキング)
又“究極のタンザニア・サファリ” ツアーで最後に訪れる、セレンゲティ北部のマイグレーション・キャンプのすぐ側には黒サイの受け入れ先、環境に適応させるための一時保護施設が昨年建設されました。南アフリカで幼少期を育てた後、ここに5頭づつ空輸されて来て環境順応期間を設けた後、ンゴロンゴロ自然保護区を初め世界各国に移されます。交渉次第で施設の見学も可能です。
次の目的地はいよいよンドゥトゥ地区です。1989年以降90年代初頭まで催行していた初期の道祖神の代表主催ツアー(現在の募集型企画旅行)、“ケニア・タンザニア・サファリ15日間”のツアーでは必ず訪れていた場所でしたが、その頃は日本人をはじめとして世界中でも殆どの方々が知らない未知の場所でした。昨今はセレンゲティでの道路規則が厳しくなり、オフ・ロード・サファリが出来る事、170万頭を超えると言われるヌー(ワイルド ビースト)やしまうまがセレンゲティの北部から南部へ移動し、西部コリドール地区へと集結する通過場所になっているため、又セレンゲティ周辺で草食獣の90%が出産するため、12月末以降数多くの観光客がこぞってここンドゥトゥを集中訪問するようになりました。そして今やお目当てのヌーの動き情報は物凄い速さで世界中に益々広まる事になりました。
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(左 : 大フラミンゴと小フラミンゴ)
(右 : 冠ツル)
12月の雨季が終わった後のンドゥトゥ湖周辺には、この塩湖を渡り損ねたり、疲労で息絶えたヌーの白骨死体が累々と横たわり、壮絶な風景です。又南下した彼等は更に西部コリドール地区へ向かうべく、ンゴロンゴロ周辺地区で雨の動向に応じて東西南北・右往左往します。
ンドゥトゥでの見所はマーシュ(クブワ)、ミティ・ミタトゥ、ンドゥトゥ湖周辺でしょうか?いつも思いますが、ドライバー兼ガイドの彼等はどうやって地形を記憶するのか?この広大な公園、色んな情報研修は受けるでしょうが、1年間ともなると乾季・雨季だけの変化だけでなく、正に木々や草花の環境状況が全く異なります。現地経験を相当積まないとそんじょそこらの日数での習得は難しいと思います。(勿論他の職業でもそうでしょうが・・・) 何回訪れても、地図を見ていてもちょっと異なった道を利用すると途端に位置が分からなくなるのは私だけでしょうか?もっとも彼等も随分苦労した経験を持ってるようですが、最初の頃はそれこそ今のように無線もなく、携帯なんぞも存在しなかった頃、公園の中で救出されるまでの野宿は当たり前だったようです。
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(左 : ワニの捕食)
(右 : 余りにも獲物が大きすぎて・・・。)
ここで過去の苦い経験を2つばかり・・・。1990年代初期の事ですが、ヨーロッパ人のサファリカーが雨の後の泥川に嵌っていた事があり、少し手助けをしましたが埒が明かなく、且つ限られた日程なのでドライバーをせかしてその場から離れました。しかし翌日、全く同じ目に会い、何と昨日見捨ててしまった正にその車に助けられました。明日は我が身と非常に反省した1件でした。
1980年代半ば、タンザニアは一時経済恐慌に陥り、ケニアとの全国境も閉鎖されバターも砂糖も小麦も油もなく、サファリのガソリンは20L位のジェリ缶に3缶位を車の後部に積んで行っていました。小さい会社は当然手に入る量も少なく、公園へ行く途中で、ガス欠でドライバーが他社の車からゴム・ホースで直接口で吸い上げて貰っているという光景も多々見受けました。あれから30年、今やケニアを上回る観光立国となり、ロッヂもその設備も圧倒的な変化を遂げて贅沢になっています。唯一変化がないのは?日本からのアクセスでしょうか!? ケニアの知名度に比して、これほど豊富な大自然を所有するタンザニアが余り知られていないのは何故なのでしょうか・・・?、気になります。キリマンジャロ空港にアクセス出来ればタンザニアのサファリももっと楽に出来るようになるでしょうに!
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(左 : ンドゥトゥ湖畔の延々と続くヌーの屍)
(右 : お腹一杯だけど・・・。)
さて本題に戻り、ンドゥトゥではヌーやしまうまの圧倒的な数の集合模様やバッファロー、ライオン、チーター、ヒョウ、サーバル・キャット等が見られます。特に乾季にはマカウ地区でカラカルが見られたという情報もあります。オフロードばかりが風評されても困りますが、やはりセレンゲティよりは動物がより間近に見易い事は否めません。ただのんびりンドゥトゥ湖等をドライブするにも湖を挟んだ南北の道路で包括地区が異なり、うっかりセレンゲティ地区に入ったりすると、罰金5000タンザニア・シリングは最低取られます。又むやみに動物に近づこうと例え停止していても走行方向の反対向きで車を止置き公園管理(緑)の車に見付かった場合、即罰金+訓告です。勿論観光客も車のハッチの上に登ったり、車から降りたり離れたりと危険な行動にはドライバー双方共注意しないと厳重注意されます。でも良く観ますよね~、ケニアなんかではヌーの川渡りを見ようとするマサイ・マラ国立保護区での観光客のマナーの悪さにはびっくりです。今にもヌーが崖を降りようか否か神経を尖らせ躊躇している反対側で、車から降り、大声で話、煙草をふかしている人達。とても由々しき事と思います。又ドライバーも関連者等誰も非難しないのは何故でしょう!残念です。
今回はンドゥトゥでもやはり執念のヒョウ探し。2回共あっという間に逃げられ、3回目にしてやっと写真にゲット出来ました。まだ木の上に狩りした獲物、トムソンガゼルの死体もあったのですが、その僅かな肉骨片をくわえて慌てて逃げ出した若い雌ヒョウでした。今まで木から降りる時に餌をくわえて逃げたヒョウは見た事がなかったのですが、よっぽどお腹が空いていたのでしょうか・・・?
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(左 : 仔共は父親を追って・・・。)
(右 : ロッヂの目前で象が交尾)
さてセレンゲティ国立公園ですが、今回は計7泊。昨年より1泊延した理由は、ヌー達の結集状況がどうも例年2月の後半に思えたからです。ただ今回は出発日が10日間程後ろ倒しになっていたため、逆に中型肉食獣の観察が難しくなりました。余りにも沢山のしまうまやヌーが限られた水場に結集するので、ライオンは兎も角、チーターのような中型猫科は完全に退避、ヒョウすらもかなり距離を置いているように見えました。ただクミナスィタには相変わらず陣取っていましたが、多分昨年と同じヒョウでしょう。しかも今回は3ヶ月齢の仔連れでした。
今回特筆すべき事は、この仔供のやんちゃな動きでした。ソーセージ・トゥリーの木の枝をあっちこっち飛んで周り、木から降りたり登ったり、母親は多分遠くへ狩りをしに行ったんでしょう。無心に遊んでいるように見える仔供の顔にはちょっぴり寂しげで不安感が見えたような・・・。
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(左 : 生後1ヶ月未満の仔供)
(右 : 親子兄弟が仲睦まじく)
何回も強調しますがこのツアーではセレンゲティで2ケ所、中心部に4泊、北部に3泊と地区を分けてサファリを実施しています。中心部のロッヂは位置こそ最高ですが、2泊もすると食事等に辟易する事になります。流石歳を重ねるに従って、もう少し快適な場所へ願ってしまうのも無理はありません。単に茹でたり、炒めたりするだけでも十分美味しい食材なのに、他はお湯も出てそこそこ快適なのに・・・。かっての国営経営から南アフリカ資本が買収しやっと何とかサファリ・ライフがより快適になるかと期待していましたが、りインド人が現場指揮を取ってるようで・・・。今の状況はさもありなんです。
北部は今やタンザニアではトップ・クラスの処遇体制を取っているロッヂ使用でサファリも然りですが、そのサービスに身も心も癒されるようにと常連さんへならではの日程になっています。
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(左 : 珍しいニシキヘビ、しかも脱皮中?!)
(右 : 木登りチーター!)
ここに来ると皆さんすっかり寛げ、セレンゲティでの動物サファリにも満足され、食生活を通してもサファリ・ライフを楽しめます。毎回工夫を凝らした食事は、味は勿論、見た目もサービスも、絶対う~んと唸らせる程の出来映えです。1980年代の添乗時はそれこそハードな環境体験で毎回5kg位痩せて帰ったのですが、最近はツアーのたんびに太って帰国してます(笑)。
さていよいよセレンゲティからも別れを告げる時がやって来ました。名残惜しいのは山々ですが、一気に空路でアルーシャまで戻ります。約1時間。眼下?には活火山のオルドイニョレンガイ山、ンゴロンゴロ・クレーター、オルモティやエンパカイ・クレーターと運が良ければアルーシャ到着直前にキリマンジャロ山も。ただ添乗員はいつも最後部の通路側に座るので、マニャラ湖は確認出来てませんが、カラトゥの町は見えています。いつかゆっくりお客さんとして眺めたいな~(笑)。
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(左 : 母親が狩りに・・・。あ~退屈。)
(右 : 何処まで行ったのかな~?)
アルーシャの町は季節により色とりどりの花が並木道の両側に咲き、一層美しい高原都市の様相を呈します。雨が降り終わった頃は黄色が主で、ピンク、赤、紫色と変わって行きます。いつまでもこの美しい町並みが続きますように・・・。
南アフリカ資本の近代的スーパー、ショップライトでは紅茶やコニャーギ(サトウキビの蒸留酒)、コーヒー豆等を購入し、中華屋さんで昼食。何処でも通用しているドルの換金計算率のせいで多少のトラブルも起きがち。そんな厄介な目にあわないようにするためには、やはりその国の通貨でやり取りする事が一番でしょう。勿論タンザニアでは個人商店等も強い外貨のドルが欲しいので、ドルの受け取りは拒否しません・・・。
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(左 : 降りては見たけど・・・。)
(右 : ママ~。)
朝チェックアウト後、朝食BOX持参で再度陸路でナマンガ国境経由でケニア、ナイロビ国際空港へ向います。出発の時間帯が早いので朝の渋滞に合う事もなくスムースに早めに到着。その国境のTV映像が津波の映像でした。その映像は何処の国か読み取れない程乱れた画像でした。まだニュージーランドの件をやっているのかなとお客さんと談笑しながら呑気にナイロビ空港到着。ここで他のスタッフから東北の地震の件を聞き、成田空港が閉鎖されているとの情報。ただ利用航空会社はきっぱり成田線はキャンセルしない!と又搭乗券も用意されドバイから先に一抹の不安が残った物の日本へ連絡。電話は大阪営業所には通じるが、東京の事務所、社員の携帯には一切通じず。その後添乗員は実家と話が出来、ひとまず安心。お客さんのご家族にも大阪経由で連絡済。G-mailも活躍。外国でも日本語のメールが読めるので楽。後は成田からの足の確保。こちらもスムースに行き、お客様方にも翌日全員無事を確認出来ました。
最後に参考のためにご報告。ご参加のお客様のお一人が(多分ツエツエ蝿でしょうか)、夜中!に左足の甲を噛まれ、赤く膨れ上がり、時に身体中寒気を感じたり、暑かったりと一種のショック症状を呈した事。冷湿布や市販の湿布・鎮静薬を塗布して頂き、何とか事なきを得た。又アルーシャでは超近代的な新しい施設の病院で投薬と飲み薬も処方して貰った事。この方は60回近くもケニア・タンザニアのサファリを経験されていらっしゃる健康そのもののスポーツマンの方。ついかなりの量のお酒を飲み、睡眠中に噛まれても全然気が付かない状態だった事が症状を大きくしたと思われます。かなり快適になったとはいえ油断ならないアフリカでの生活。やはり全てに対して初心に戻り、注意するに越した事はないです!!
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(左 : 寂しいな~。)
(右 : マイグレーション・ロッヂのレストランに夜な夜な出現のジーネット)
池田

2010.12.23発 世界遺産タッシリ・ナジュール岩絵トレック 11日間

昨年末にアルジェリアの世界遺産タッシリナジェールを訪れました。タッシリナジェールはサハラ砂漠の真中におよそ800kmにわたって連なる黒い台地で、あたかも月面を思わせるその荒涼とした世界の隅々に先史時代の壁画が隠されています。
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風と水に激しく浸食された台地上では、奇岩が森のようになり、または果てしなく岩の絨毯が広がり、断層がむき出しにされ、涸川がいくつもの谷を形作っています。この生き物にとって過酷な世界にはかつては氷河が覆っていた時代があり、熱帯雨林が広がった時代があり、草原だった時代があり、多くの人の賑やかな声が聞こえた時代がありました。タッシリナジェールを7日間にわたって歩くこのツアーは、荒々しい自然の景観から大きな時間の流れを感じ、残された壁画から人の繁栄と衰退を目の当たりにする壮大なタイムスリップツアーというわけです。
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トゥアレグのガイドの案内で、ロバに荷を乗せて谷に入り、標高約2,000mまで遡ると源流地点から月面台地が広がりました。初日に登りを終えてから最終日に下る時までの7日間、生き物の気配の乏しい空間を歩きまわり、生活しました。
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幸いなことに今回は旅行者がかなり少なくただでさえ静かな場所はまさに無人島のように寂しく、美しい場所になっていましたが、そのもっとも美しい時間はやはり夜でした。満点の星空の下、焚火を熾し、少しシャイなトゥアレグ達と毎夜歌を歌いました。自分たちの灯りと星と月以外に光がなく、歌声以外にはまったく音がありません。トゥアレグの中にはまるで音痴な歌好きや、痺れるほどの美声の強面、ポリタンクドラマーの少年などいろいろいて、客の前で歌を披露することに慣れていなかった彼らが(お互い様だが)日を追うごとに伸び伸びと歌うようになるにつれ、お互いの距離が近くなっていきました。私達はというと、毎夜なんの歌を歌うかに頭を捻り、「炭坑節」や「月の砂漠」、「幸せなら手を叩こう」、「証城寺の狸」などを披露しました。受けが良かったのは意外にも「かえるの歌」で、シンプルな輪唱が珍しく聞こえるようでした。
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壁画は古いもので新石器時代まで遡るものも見られますが、数千年もの間、壁画は描かれ続け、気候の変化にともなう動植物の変化、生活様式の変化、感性(デザイン)の変化を辿ることができます。肉体美や装飾を描いたもの、戦争を描いたもの、家族の愛を描いたもの、あるいは神のようなもの、ひどく抽象的で分からないものと、、テーマは本当に様々。一時期よりトゥアレグの祖先が登場し始め、ガイドの説明に熱が入ります。ターバンを巻いて昔ながらの姿をしているガイドの姿を見ていると、数千年の時間なんて自分たちの思っているほど長い時間ではないのではという気がしてきます。街から遠く離れて彼らと寝食をともにしていると、壁画に描かれた世界に迷い込んだような錯覚に陥ります。これぞまさにタイムスリップです。
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サハラの懐にある荒野の画廊を歩く旅、、焚火の美しい野営の旅、、ぜひおすすめです。
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有冨