先日、『ケニア・タンザニア旅ガイド まるまるサファリの本ver.2』
著者・武田ちょっこさんが来店されました!
この本、ケニア、タンザニアの旅行には、パスポート、航空券の次に欠かせない!?必須アイテム。自称サファリおたくのちょっこさんの生きた経験による旅情報と、可愛らしいイラストは、旅の楽しさを何倍にも盛り上げてくれます!
道祖神店頭でも販売しておりますので、ご来店の際はぜひ、ご覧ください。
ホルス神(エジプト航空)、再び日本へ!!
アラブの春以降、エジプトの治安の問題で、エジプト行きの観光客が減っていたものの、ここ数年治安状況が少しづつ良くなってきています。
かつては、成田-マニラ-バンコク-カイロで運航され、成田-マニラ間や成田-バンコク間で利用された方もたくさんいたと思います。運休前に成田-カイロ間が直行便になったようですが、2013年に、観光客が減ったため、エジプト航空が日本線を運休してしまいました。
それから4年ついに直行便が復活しました。昨年10月29日より、エジプト航空が週1便ながら、成田-カイロ間の直行便の運航を開始しました。運航機材はボーイング777-300ERになります。
成田発が毎週日曜日で、カイロ発が毎週土曜日で、いずれも翌日着になります。エジプト航空でエジプトに行くと、国際線と24時間で乗り継ぐ国内線が割引になりますし、預入手荷物の規則も国際線に準じますのでお得です。
カイロで乗り継いで、ロンドン、パリ、アテネなどのヨーロッパ、カサブランカ、チュニスなどの北アフリカ、ナイロビ、アスマラ、エンテベなどの東アフリカへは、空席があるとお得な運賃で旅行することも可能です。
ぜひ、エジプト航空でカイロをはじめとする、エジプトの各地へ、さらにはカイロ以遠の他の国へお出かけください。
画像は、エジプト航空のボーイング777-300ER、垂直尾翼に描かれているのが、天空の神であるホルス神になります。
by 深川
WILD AFRICA 37 チーターの狩りを撮る
アフリカの野生動物を撮影する人間にとって、全速力で獲物を追うチーターの写真はものすごく欲しい”トロフィー”の一つだ。かく言う私も、1993年にタンザニアで動物写真を撮り始めて以来25年間ずっと挑戦し続けてきた。そして今年の1月、数年来通い続けているボツワナのマシャトゥ動物保護区で、やっとある程度納得のいくハンティングシーンを撮ることができた。
”ある程度”というのは、時刻が日没後だったためにとても暗く、カメラのISO感度をかなり上げざるをえなかったためだ(感度を上げるに従って写真の画質は低下する)。
チーターの狩りを撮るには様々な条件が一度に満たされねばならない。第一の条件は、当然ながらチーターを発見すること。それも腹を減らしたチーターをだ。空腹かどうかは腹の凹み具合や尾の先を左右にパタパタと動かす仕草などで見分ける。付近にインパラやガゼルといった獲物の存在も不可欠で、チーターがその獲物に気づかれることなく、50メートルくらいの距離まで忍び寄れるだけの地形的条件ないしは植生も必要だ。遠すぎる位置からでは、いくらダッシュをかけても獲物に逃げ切られてしまう公算が高いことをチーターはよく心得ている。
ところが、撮影をする側にとって遮蔽物が多すぎるのは問題で、なるべく開けた場所で狩りをして欲しい。しかもチェイスがこちらに向かってくる形で起きてくれなければアップでは撮れない。となると、手前に獲物、その奥にチーターが見えるポジションで待ち構えるのが一番確実で、車をそのような場所に停められるかどうかが鍵となる。あとはいざ狩りが始まったとき、追われた獲物がこちらに向かって逃げてくれるよう、ひたすら願うのみだ。
1月9日は、ついにこれらの条件がすべて同時に揃った、私にとって記念すべき日となった。チーターがダッシュを開始した直後、危険に気づいたインパラは全力で車のすぐ左を駆け抜け、その後をチーターが猛スピードで追った。写真はそのときのものだ。しかもこの直後、何とインパラが追っ手を振り切ろうと180度に近いターンをし、今度は車の右側をすり抜けていったため、チーターも反転し、最終的には車の右前方でインパラを捕らえた。最高時速100km以上で走るチーターのチェイス一部始終を、それもかなりの近距離から撮影できたのは25年間で初めての経験だった。粘り強く続けていればやがてチャンスは巡ってくる。これだからサファリはやめられないのだ。
撮影データ:ニコンD850、80-400mm f/4.5-5.6 VR、1/1250秒 f5.6 ISO7200
写真・文 山形 豪さん
やまがた ごう 1974年、群馬県生まれ。少年時代を西アフリカのブルキナファソ、トーゴで過ごす。高校卒業後、タンザニアで2年半を過ごし、野生動物や風景の写真を撮り始める。2000年以降は、南部アフリカを主なフィールドとして活躍。サファリツアーの撮影ガイドとしても活動している。写真集「From The Land of Good Hope(風景写真出版)」、著書に「ライオンはとてつもなく不味い(集英社新書ヴィジュアル版)」がある。www.goyamagata.com
「学」 歴史は多くの教訓を私たちに教えてくれる
40年前、道祖神が創立された頃、エチオピアでは軍事独裁体制による社会主義政権がつづき、隣国ケニアではジョモ・ケニヤッタ初代大統領が亡くなり、混乱とクーデターが起こっていた。アフリカ諸国が独立を勝ち取ったのはわずか60年前。その後、めまぐるしく変化するアフリカの中で、エチオピアはどのように変わったのか。今回は、その歴史が学べるいくつかの場所をご紹介する。
宮殿跡にある国立民族学博物館
アディスアベバ大学の敷地内にあるハイレ・セラシエ皇帝の宮殿跡が博物館となっている。アフリカ最高峰の博物館のひとつとして評価が高い。1階は大学の歴史展示、2階は各民族の暮らし(ゲーム、宗教、通過儀礼、冠婚葬祭、生活道具)の展示、修復された両陛下の寝室も見学ルートに入っている。3階には教会宝物や歴史的な絵画、様々な地域や時代に奏でられた楽器の展示もある。
見学を終えて外に出ると「空に向かってのびる奇妙な階段」が見える。イタリア占領時(1936年-41年)に造られたモニュメントで、各階段はイタリアファシズム支配年を表すという。支配が終わってもエチオピア人はこれを壊さず、階段トップに同国の象徴ライオン像を置き今日に伝えている。大人なやり方だ。※有料100ブル(約400円)2017年現在/ガイド案内あり
「赤い恐怖」殉教者記念博物館
2010年オープン。冒頭に書いたメンギスツ独裁政権下では、数十万人が惨殺されたとされる。ここには残虐の歴史、文書、犠牲者の写真、衣服、頭蓋骨までもが展示されている。正直、直視するのがつらい場所だが、歴史をより深く理解することで「Never Ever Again(繰り返してはならない)」の強いメッセージを来訪者は受け取るに違いない。※入場無料/寄付箱あり/ガイド案内あり
アディスアベバの歴史が始まった山
メネリク皇帝2世とタイトゥ皇后の宮殿
エントット山は観光名所だが、重要な歴史建造物があることはあまり知られていない。アドワの戦いでイタリア侵略軍を倒し首都を築いた「メネリク2世(在位1889~1913)」の宮殿と皇帝が建立した教会(マリアム教会・ギドゥスラグエル教会)だ。
メネリク2世は、欧米列強がアフリカを分割し植民地化しようとした時代に生き、白人と戦い独立を守り、エチオピアを統一したスーパーヒーローとして知られている。鉄道や道路建設、税制、郵便制度、国立銀行の設立など近代化にも尽力し、当時のエチオピアをアフリカ諸国のなかで最も進んだ国にしている。皇后タイトゥも政治力と行動力を持つ女性で皇帝と共に歴史を動かした。建築様式が美しい宮殿は一部が残り、内部も見学できる。
この3月28日、エチオピアでは任期半ばで退任した前首相に代わって、42歳の若い新首相が選ばれた。都が一望できる山頂で、メネリク2世と皇后が描いたエチオピアに思いをはせてみてはどうだろう。※有料/教会宝物殿、宮殿の見学が可能/ガイド案内あり
おすすめ歴史書(どちらも平易な英語で書かれている)
■「The City & Its Architectural Heritage The ADDIS ABABA 1886-1941/Shama books」
歴史的な建物と当時の暮らしぶりが、豊富な写真と説明でよくわかる。
■「a History of Ethiopia in Picture from Ancient to Modern Time/Arada Books」
古代から現代までの歴史の重要ポイントが簡潔な文章とイラストで描かれている。
文 白鳥くるみさん / 写真 白鳥清志さん
白鳥くるみさん (アフリカ理解プロジェクト代表) 80年代に青年海外協力隊(ケニア)に参加。以来、教育開発分野で国際協力に力を注ぎ、多くの課題を抱えるアフリカのために何かできたらと「アフリカ理解プロジェクト」を立ち上げる。エチオピアを中心に活動の後、2015年、日本に拠点を移し本の企画出版などの活動をつづけている。
Africa Deep!! 66 何もかもが新鮮だった35年前の初めてのアフリカ旅行
僕が初めてアフリカの土を踏んだのは35年前のこと。その春に大学を卒業して出版社で働き始めたばかりだったが、海外の山に登ってみたい!という誘惑に抗しきれず、新入社員のくせに会社に無理を言って年末年始に二週間ほどの休暇をもらった。行き先はキリマンジャロ山である。
実はこのときが僕と同行の友人にとっての生まれて初めての海外旅行。行くと決めたものの、何をどのように準備したらよいのか皆目見当がつかない。今のようにガイドブックもなく、おそらく旅行会社が企画する登頂ツアーなどもなかったと記憶している。唯一、頼りにしたのは、今でいうバックパッカー向けの「オデッセイ」というガリ版刷りのような雑誌。そこにキリマンジャロに登った人の体験記が出ていた。その「オデッセイ」に広告を出していたのが道祖神である。
目黒駅前のオフィスを訪ねると、僕と同年配の方が応対してくれた。35年たった今も親交が続いている現在南アフリカ共和国のヨハネスブルグに駐在する高達さんである。僕は旅行にいったいどれくらい金額がかかるのか相談した。「旅行の仕方によって全然違ってきますね。百万円かかることもあれば、数万円でもオッケーかもしれないし」というのが高達さんの返事。これではますますわからない。
「若いのだから現地で直接交渉したほうが旅はおもしろいと思うよ。安くあがるし」という説明を受け、商売にあまり熱心じゃない会社だなあと思ったが、後になって高達さんは入社直後だったことを知った。実際は旅行手配に慣れていなかっただけなのかもしれない。結局、道祖神ではナイロビ往復の航空券のみ購入した。
そして出かけたアフリカは見るものすべてが新鮮で、大げさでなく僕のその後の人生を決定づけるほどのインパクトを与えてくれた。サバンナの真っただ中で槍を手にバスに乗り込んできたマサイの人たちの姿。ドキドキしながら犯罪(闇両替)に手を染めたこと。社会主義経済が破綻寸前でビスケットと石鹸しか売られていなかったタンザニアの商店。路上生活者のあまりの多さにビビったナイロビの下町。満員にならないと発車しないバス。賄賂をねだる国境のイミグレ係官。高山病でゲロを吐きながら登ったアフリカ最高峰。
どちらかというと散々な目に遭った旅行だったが、当時の情景は僕の脳裏に今も美しい記憶として刻み込まれている。
写真・文 船尾 修さん
船尾 修さん 1960年神戸生まれ。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。アフリカ関連の著書に、「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から」「UJAMAA」などがある。最新作の「フィリピン残留日本人」が第25回林忠彦賞と第16回さがみはら写真賞をW受賞した。 公式ウエブサイト http://www.funaoosamu.com/