ウガンダ・ホームステイ

アフリカの素朴な田舎生活を体験し、そこに住む人たちと交流してほしい・・・そんな思いから生まれた、ウガンダのホームステイプラン。このツアーに参加し、たっぷり村のステイを満喫していただいた松田真依さんのツアーレポートです。(2007年6月)
ンシェニ村ステイ 1日目
ンシェニ村1日目の朝。昨日は、夜中トイレに行きたかったのだけど、電気のないトイレに夜一人で行くのが怖くて我慢してた。朝5時ごろ、我慢しきれず暗い中を懐中電灯片手に行き、帰って二度寝。起きたら6時半すぎで空はほんのりピンク色で靄がかかっていた。他のメンバーが起きてくるまで玄関でガイドのエヴァンスとギターで歌を歌う。イッスンムルンジ~(教えてもらったウガンダの歌)。それに応えるかのように、鳩の声がした。
村では、一人100頭~200頭のアンコーレ牛と呼ばれる角の大きな牛を飼っており、村の一日はそのアンコーレ牛の乳しぼりから始まる。私たちも教えてもらいつつ、一緒に乳しぼりをさせてもらった。教えてくれた村の少年エノミ(雄牛という意味らしい)は、時々わたしが失敗してミルクをピューっと飛ばすと笑って「いいよ。いいよ。」と、慣れた手つきでまた乳房にミルクを溜めてくれた。「これなら、出るよ。やってみて」。Webale, ENOMI! (ありがとうエノミ)
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乳しぼり後、朝ごはんを食べて腹ごしらえをしたら、サバンナを車で走り、タンザニアとの国境の川へ。「川の向こうはタンザニアの動物公園だから、暑いとカバや他の動物が水を飲みに降りてくるのが見られるよ」とのことだったのだけど、残念ながら今日はそこまで暑くなくカバは見られず。川辺で村の青年達と偶然会って、家や川辺を案内してもらった。別れ際、そのうちの一人“サム”に求婚される。「俺、牛200頭持ってるから、嫁に来てくれるなら、そのうちの100頭を君にあげるよ」村一番のイケメンの言葉にちょっと心が揺らいだ。
一旦、家に帰って昼食をとった後、マトケ畑を案内してもらった。マトケはウガンダの主食で緑のバナナのこと。このあたりはどこに行ってもマトケ畑が広がっている。その光景はうっとりするほどきれい。そんなマトケ畑でマトケの採り方を実演してもらった。
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マトケ畑を抜けて、近くの村へ遊びに行く。エヴァンスのギターで「上を向いて歩こう」と「今日の日はさようなら」の歌を披露。村の人たちはとても喜んで、家の中まで見せてくれた。ここはとても小さな村で、家は3つだけ。村民は全員家族。「どうやって結婚するの?」と聞くと、近くの村(と言っても遠い)へお父さんが出かけて行き、お父さん同士で結婚相手を決めて帰ってきて、結婚式の当日、初めて結婚相手がわかるという風になっているらしい。「そしたら、相手が気に入らなくて離婚になったりしないの?」と思っていたら、この村には離婚なんてないらしい。「それはcan’t なの?」と聞くと「don’tだ」と言われた。どんなに相手と相性が合わなくても、彼らは離婚「できない」のではなく、「しない」のだと。
夕食はもちろん昼間とったマトケ。この村では電気もガスもないため、夜はランタンの灯りだけ。ランタンのあったかい灯のなか食べる晩ごはん。ご飯の後は、外の焚き火を囲んでダンスをした。私たちのために村の人がみんな集まってくれた!
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今日はいっぱいいろんなことしたなぁ、そう思いながら床についた私は2秒後にはもう夢の中だった。
ンシェニ村ステイ 2日目
今日も朝から乳しぼり。今日の乳しぼりの先生はエノミの弟ルノワ。わたしがちょっとずつ覚えてきたルニャンゴーレの言葉を話すとルノワは大喜び。「君、ルニャンゴーレの言葉喋れるんだ!」おかげですっかり仲良しに。今日はその後に、ニワトリの餌やりもさせてもらう。コロコロコロと言いながらニワトリを呼び寄せる。予想外にアグレッシブな鶏に逃げまくる。
朝食後、近くの小学校へ見学に連れて行ってもらった。校長先生が全校生徒を集めてくれて、全校生徒の前で自己紹介をした私たち。子どもたちは、歓迎の歌を歌ってくれた。そのお礼に私たちはまた「上を向いて歩こう」を歌う。子どもたちの歌ってくれた歌はエイズの歌だった。学校の木にも「Together we can fight AIDS」と書かれた看板がくくりつけてあったりと、ウガンダの小学校ではエイズ教育がしっかり行われていた。
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小学校の後はマーケットに行った。キテンゲ(ウガンダの布)を大量購入。自分の分、家族の分、友達の分…。先生(ステイ先のママ)が見事に値切ってくれた。
マーケットの後は国境を越え、タンザニアへちょこっと入国。レストランに入る。料理が出来上がるまで1~2 時間かかるということで、待っている間、近くにいた子供たちのところに遊びに行く。片言のスワヒリ語。彼らに教えてもらう形で仲良くなっていく。エヴァンスに昨日教えてもらったjambo!の歌。スワヒリ語の歌だけど、ケニアの古い歌らしくタンザニアの子どもたちは知らなかったので教えてあげると、子どもたち大喜び。最初は5人ほどだったのが、いつのまにか村中の子供たちが集まってきていた!!
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ご飯が出てきてからも「マイー」「マイー」と構ってほしそうに言うので、わたしが唯一覚えていた I want to にあたるスワヒリ語の表現だけを使って、ご飯を食べながらもスワヒリ語カタコト会話。「何が食べたい?」「何が飲みたい?」聞くだけ聞いて彼らの答えは結局何を言っているのかわからなかったわたし。何度目かの「どこに行きたい?」の後、隣にいた英語もわかる大人に何気なく聞いてみた。「彼らは何て言っているの?」彼は笑顔で答えた。「『日本に行きたい』ってさ」。胸がいっぱいになった。「ナクペンダー、ワトト!!(みんな大好きー!!)」思わずさっき教えてもらった表現を叫ぶ。
ご飯も食べ終わり、帰ろうとすると後ろから「マイー!」「マイー!!」と子供たちが走ってきた。手を出すから、握手だと思って握り返すと手の中に何か入ってきた。見るとウガンダ100シリングが。一生懸命わたしに何かを伝えてくれている彼ら。でも何を言っているのかわからなかったので、近くにいた大人に通訳を頼む。「これ、あなたが今から行く国のお金でしょ?みんなからのマイへのプレゼントだよ。使ってね」目の奥で涙が動いた。Asante sana.ありがとう。その時のコインはもちろん今でも手元に大事にとってある。
帰って夕食をとった後は、また焚き火を囲んでのダンス。ルワンダとの国境近いこの村にはルワンダから来た人たちも多いらしく、今夜はルワンダのダンス。村の若い男の子たちが布を持ってダンスに誘いに来てくれる。布を巻いてもらって、男の子たちも自分で布を巻いて二人で踊る。焚き火の灯に黒く浮かびあがった、布を巻いた彼らのシルエットにドキドキした。ンシェニ村、最後の夜。
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ンシェニ村ステイ 3日目
今日はいつもより1時間早起き。昨日一緒に踊ったティムとロバートの家を見せてもらい、そこで牛の乳しぼりをさせてもらう。彼らは朝ごはんも昼ごはんも夜ごはんも全食牛のお乳、牛乳のみ。そのかわりものすごい量を飲む。乳しぼりの合間に外で飲むのだけど、飲むときはちゃんとしゃがんで飲んでいた。立ったまま飲むのはお行儀が悪いからなのだそう。わたしたちも搾りたての牛乳を飲ませてもらう。
帰ってきて朝ごはんを食べたあと、今日はヨーグルト作りをさせてもらった。瓢箪みたいな容器に牛乳を入れてひたすら振る。できたてのヨーグルトはとってもおいしかった。お腹こわしたりしないかなぁ、と少し不安だったけど大丈夫だった。
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最後に先生は、わたしのカンガでウガンダ巻きをしてくれた。「いつでも戻ってくるんだよ。ここはもうあなたの家だから」目に涙をいっぱい溜めてぎゅっと抱きしめてくれた先生。ありがとう。本当にありがとう。
帰りの車の中、みんなそれぞれウガンダネームをつけてもらった。わたしのもらった名前は Kenyangyi(ケニャンジ)。ウガンダの白い美しい鳥という意味。Enyangyi(エニャンジ)という白いきれいな鳥がいて、女の子を褒めるとき「よくできたね。エニャンジ。エニャンジ」と褒めるのだそう。それにKを付けて女の子の名前としてつけるらしい。もう夜のトイレも怖くない。牛の乳しぼりも一人でできる。ウガンダネームはそんな私たちへの彼らからの修了証みたいなものだったのかもしれない。ケニャンジ。ケニャンジ。あまりにも嬉しくって、車の中、わたしは何度もその名前を繰り返した。そしてまた絶対戻ってこようと、心の中で強く思った。
最後に、わたしはエヴァンスに 「ねぇ、あなたがもし日本に来たら 日本の人にウガンダの何を一番伝えたい?」と、聞いた。 彼は言った。「we live different, but normal」(俺達の生活は確かに違っているかもしれない。でもこれは普通なんだ。ノーマルなんだ)エヴァンスは外国に行って「ウガンダ出身だ」と言うと、まず「ウガンダってどこ?」って聞かれると言っていた。そしてそれはとても屈辱的だ、と。「東アフリカだ」と答えると 「えっ、アフリカ?大丈夫?大変だね」って言われるのだ、と。それほどショックなことはないよ、と悲しそうに言った。彼は言っていました。「みんなアフリカを原住民の国みたいに思っている。それか、紛争や貧困だけ暗いイメージしかなかったり。だけど違うだろ。世界はアフリカのことを知らなさすぎるよ。」「それにアフリカってひとくくりにされるのも好きじゃない。日本だって同じアジアでもカンボジアとは全然違うだろ?アフリカだって一緒さ。その中の国1つ1つは全然違うんだ」わたしは彼と握手して「大丈夫。私がそれをあなたの代わりに日本で伝えるから」そう、約束して帰ってきました。they live different, but normal.
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ソウェトでホームステイ(現地発着)

弊社現地発着ツアー「ソウェトでホームステイ(泊数自由)」にご参加されたY.I 様からのレポートです。
ヨハネスブルグへ
ナミビアの楽しい旅はあっという間に終わってしまい、次はヨハネスブルグへ向った。
とても治安が悪いのでヨハネスを避けて通る旅行者も多いけれど、激動の地と言われているだけに一度見ておかなければならない気がした。
ヨハネスブルグでは「SOWETO」という、アパルトヘイト時代の黒人居住区でホームステイをする事になっていた。南アフリカには、かつて「集団地域法」で有色人種が住む地域として計画的につくられた「タウンシップ」という住宅地がある。このタウンシップの中でも最も有名なのがSOWETOで、ヨハネスブルグの南西部にあったため、South Western Townshipの頭文字を取ってSOWETOと名づけられのたそうだ。
アパルトヘイト崩壊後も全てが急に改善される訳ではないので、未だ SOWETOに住んで厳しい暮らしをしている人が多い。この実態を世界各国の人々に伝えていくために、タウンシップ体験ツアーを受け入れているのだそうだ。旅行本には「SOWETOのツアーは観光化されすぎてしまってリアルな暮らしが見えづらい」というコメントも多い。
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今回は現地の人々と身近に接したかったので、一般的なSOWETOツアーでなく特別にホームステイをアレンジしていただく事になっていた。
ヨハネス空港にはこの駐在員の高達(コウダテ)さんが迎えに来てくださったので、早速車に乗って町へと向う。いよいよヨハネスに来てしまったんだなと緊張していると、高達さんがヨハネスブルグの歴史、アパルトヘイトの事などを語りだした。高達さんは旅行社の人というよりは、フリーのジャーナリストの様な感じの人だ。ヨハネスでの駐在暦は4年という事だけれど、もう何十年もいる様な感じで地域や人々の抱える問題、背景をよく知っている。そして、何より思い入れがある。特にSOWETOは第二の故郷みたいな存在の様で、何だか熱いものを感じてしまった。
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SOWETOへの道中、ヨハネスブルグの旧白人居住区をドライブする。白人の方や富裕層が多く住むという住宅街は、どれも豪華な住宅ばかりで、まるで香港やシンガポールの町並みの様だ。綺麗に手入れされたビューリンゲンの植木、優雅にテニスをする少女たち、道行く高級車…。ここが本当に「世界で最も危険な町」なのかなと疑ってしまうくらい穏やかな空間だった。
市街を行くと急に東洋人だらけの地域を通りかかる。どうやらヨハネスブルグにもチャイナタウンがある様だ。ヨハネスブルグには古くから中国人がたくさん移住してきていて、それなりに成功している人も多いのだそうだ。こんな所でもコミュニティを築くなんて、中国人はやはり強いなあと関心した。
ダウンタウンへ
住宅地の後は町の中心部、ダウンタウンへと向う。ダウンタウンが近づくと、ガラリと雰囲気が変わって緊張感が高まった。白人、東洋人の姿はほとんどなく、通りを歩くのは黒人の人たちばかり。もちろん旅行者らしき人もいない。時間帯・場所によっては、白人、お店を持っているインド人、中国人などもいるそうだけど、この日は日曜の夕方という事もあって、特に閑散としている。黒人の人たちは、地元の人たちの他、南アの他の地域、ジンパブエ、モザンビーク、ナイジェリア、エチオピア、ソマリアなどから出稼ぎに来ている人たちなど様々という事だった。
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ビルも空室だらけで閑散としている。昔はこのあたりに国際企業の事務所があって栄えていたけれど、治安の問題で続々とサントン地区に移動してしまったのだそうだ。町の象徴と言われるカールトン・センターですら、治安の問題でカールトン・ホテルが撤退を余儀なくされたという。今ではガラ空きになったビルもたくさんあって、何だかもの悲しかった。
このあたりは強盗がとても多いという事なので、車外から見られない様にそっとシャッターを切る。
カールトン・センターや中央駅周辺などは特に危険な地域で、旅行者はもちろん、南ア人でも余所者だと分かると強盗に合ったりするのだそうだ。乗り合いタクシーの運転手が、休憩中にカモを見つけて強盗に早変わりしてしまう事があるという噂すらあるのだという。
サントン地区などは高級車がよく走っているのでカージャックが多い様だけれど、街中では圧倒的に強盗の被害が多いのだそうだ。性犯罪もとても頻繁に起こっているという。本当にそんな事が普通に起こりそうなくらい、町の空気がヤバくて本当に恐い。NYのハーレムやモスクワのダウンタウンにも行ったけれど、ここの方が何十倍も危ないなあ。せめてカージャックや強盗には合いませんように。車中ながら、知らず知らずカチコチになっている自分がいた。
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ソウェトへ
ダウンタウンを出ると、いよいよSOWETOへと向う。ハイウエイで走る事数十分、「Welcome to SOWETO」という看板と共にSOWETの町並みが現れる。道路中央に建てられたLOREALの看板が、妙に町とマッチしていて不思議な感じだ。
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SOWETOの町や労働者がペイントされた発電所跡、体育館の様な教会、シビーンというもぐりの飲み屋…。中心部の市街地では見られなかった光景が続々と現れる。高級車は姿を消し、道を行くのはSOWETOの人々がぎゅうぎゅう詰めに乗ったミニバス、そしてひたすら自分の足で歩く人、人、人…。
SOWETOの人々はヨハネスブルグで仕事を得ても、毎日すし詰めのミニバスで長時間かけて通勤しなければいけない。大体5時頃に起きて職場に向う人が多いのだそうだ。
SOWETOの町を更に行くと、スクウォッターキャンプを通りかかる。スクウォッターキャンプとは不法居住区の事で、SOWETOの中でもとても厳しい生活を送っている人が住んでいる地域だ。住宅というよりは掘っ立て小屋の様な建物が何百件、何千件と密集して建っている。暮らす場所を見つけるのも難しい状態なので、こんなに小さな掘っ立て小屋の中にも何人もの大家族が住んでいたりするのだそうだ。
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電線すらしかれていない所も多く、あたりはとても薄暗い。このあたりは、エイズに苦しんでいる人も多いのだという。お金を貯めるために一時的にここに住んでいるだけの人もいる様だけれど、全般にとても苦労している人が多い地域の様だ。
「遠い夜明け」に出て来た様な場所が、未だに実在するんだなあ。日本にいるとアパルトヘイトの撤廃で何もかも良くなったと思ってしまうけれど、問題はまだまだ解決されていないのだなと思った。
ピリ地区へ
スクウッターキャンプを抜けると、ホームステイ先のピリ地区へと向う。ピリ地区は合法の居住区なので、スクウォッターキャンプよりは水準が高い。それでも地元の人以外を見かける事がまず無い、ディープな場所だという。そこら中走り回っても、私と高達さん以外外国人は誰も見かけない。今日はここに泊まるんだなと再び緊張感が高まる。
ピリ地区の様な合法居住区には、政府が労働者のために計画的に建てたという家が整然と並んでいる。旧白人居住区の豪邸と比べて「マッチ箱」と言われている様だけど、敷地は日本の戸建てより広く何だか不思議な感じだ。良く見ると一戸建て、二軒長屋、三軒長屋と色々なタイプの家がある。それぞれ母屋らしき建物に継ぎ足して増築したり、カラフルに塗装したり、外装に凝ってみたり…いろんな工夫がされている。SOWETOの人たちは働いてお金を稼いでは、こうして家のリフォームやお洒落、お酒にお金を使っていくのだそうだ。ある意味、日本人より一日一日を楽しく生きるのが上手いのかもしれないと思った。
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ビッグママの家へ
ホームステイ先は、そんな町の一角にある長屋だった。
高達さんの車から降りると、早速何人かが出迎えて歓迎してくれる。皆温かくていい人そうなので、ほっと安心する。
SOWETOは恐いところと言われているけれど、一度地元の人たちに溶け込んでしまえば家族的につきあえる事もあるのだという。とはいえ旅行者がふらっと来て急に入り込めるわけでもなく、今のところSOWETOに入り込めている日本人は、高達さんとあとわずか数人だけだという事だった。
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長屋の中に入っていくと、まだ夕方だというのに何人かの人たちは既にお酒を飲んで出来上がっている。
この家はガレージにテーブルや椅子を並べて、飲み屋を経営していた。タウンシップには、ビールやドブロクをライセンス無しで売る「シビーン」という飲み屋がたくさんある。言わば「モグリの飲み屋」だけれど、生活を支えるための重要な産業として栄えている様だ。
SOWETOの人たちはこの「シビーン」でとにかくよくビールを飲む。飲んで、飲んで、その日を楽しく終えるのだそうだ。 エクステンドルーム、ガレージなど、敷地一杯に増築された家の奥に入っていくと、リビングルームで100数十キロはありそうな大きな女性が待っていた。ホームステイのホスト役のビッグママだ。歓迎の意と共に一先ず抱きしめられ、圧倒される。何でも二年前までは体重が170キロ(!)あって、今はもっと太ったかもという事だった。体格もすごいけれど、何というか親分的なオーラがあってとても迫力がある。
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SOWETOでは、子供や家を守らなければならないという意識から、女性の方がしっかりしていたり強かったりする事が多いのだそうだ。ビッグママもシビーンを切り盛りしたり、大家族を養ったり、いろいろ苦労も多いんだろうなと思った。
ビッグママへの挨拶が終わると、お茶をいただきながら、娘さん、息子さん、子供達…、順々に紹介をいただく。ビッグママの影響か、皆明るくてきっぷのいい人たちだ。ノリがよくお洒落で、アフリカ人というよりはブラック・アメリカンの様な感じがする。とりわけお洒落のレベルは高く、原色の服を格好よく着こなしたり帽子や眼鏡を上手くコーディネートしていたりしている。SOWETOの人たちは老若男女問わず、とにかくお洒落に余念がないのだそうだ。
ソウェトの子供達
皆への挨拶が終わると、夕食までの間子供達と遊ぶ。子供達は写真が好きな様で、撮って撮ってとねだってくる。
南アの子供達は写真を撮られる時、人差し指や小指をたてたピースの様な仕草をする。どうやらテレビで流行った「オラ・セブン」という番組のポーズの様だ。写真をたくさん撮らせてくれるのは良いけれど、普通にしてた方が可愛いいからと言っても必ずこの格好をしてしまう。撮影会に悪戦苦闘しつつ、子供達と戯れるのは楽しい。皆無邪気で可愛いけれど、中には事情があって両親と一緒に暮らせなかったり苦労を抱えた子もいるのだそうだ。
この子達が大人になる頃には、もっと多くの事が解決されていると良いなあと思った。
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ソウェトでの夕食
この日は家族の一人が誕生日だったので、ビッグママの娘さんたちが腕をふるってご馳走をつくってくれた。誕生日の当人が一番一生懸命料理をつくってくれていて、こんなイージーさもSOWETOらしさなのかなと思った。
メニューはカレー風味のチキン、サラダ、カボチャの煮物、ポテト等々。とてもボリュームがあって美味しい。
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ビッグママの家族、遊びに来ている近所の人たちも一緒に大勢でワイワイ食べる。時々シビーンの常連客が居間に流れこんできて、歌ったり踊ったりしてくれる。皆、歌も踊りも上手いので見ているだけで楽しい。SOWETの家庭はとてもオープンらしく、娘さんの友人たち、近所の人たち…。この日だけでも20人くらいの人が出たり入ったりしていた。夜遅くまでおしゃべりしたり、飲んだり、踊ったりそれぞれに楽しんでいる。近所の人たちも、娘さんの友達も、皆家族の様に仲が良い。
皆それぞれ苦労も多い様だけど、日本人より本当の楽しみ方をよく知っているのかもしれないなあ。
この晩は、ビッグママが用意してくれた可愛い客室で眠る事になった。大きなベッドに横たわりながら、子供達が床で寝ていた事を思い出し申し訳ない気持ちになる。
明らかに寝る場所が足りないけれど、皆ちゃんと眠れるだろうか?このあたりも強盗がたくさん出るっていう事だけど、シビーンのお客さん達は無事に帰れるんだろうか?シビーンや居間では、まだまだワイワイやっているのが聞こえる。今日は本当に衝撃的な事ばかりだったな。こんな世界があるなんて知らなかった。自分は本当に世界の一部しか見てなかったんだなと思い知らされる一日だった。
ソウェトを去る朝
翌朝の飛行機は早かったので、慌しくビッグママの家を去る事になった。
朝食を食べながら別れを惜しみ、お別れの挨拶をする。短い間だったのに、ビッグママが「また来てね」と泣いてしまったので、私もホロリと来てしまった。 SOWETOの人たちはとても情が深い。今回はヨハネスのトランジットついでに短期間で来てしまったけれど、皆と一緒に過ごしたり、町や施設を見たり、もっと経験すべき事はたくさんあったんだろうなあ。
ビッグママの家を去ると、再びSOWETOの町をドライブしつつ空港へと向う。
貧困家庭に政府が無料や安価で提供しているというRDPハウス(RDP=Re-development Plan=復興開発計画)、SOWETOに隣接・近接した地域にある混血の人が住むカラード・タウンシップ、インド系の方が住むインディアン・タウンシップ…と、いろいろな場所がある。アパルトヘイトが撤廃されても、SOWETOから旧白人居住区の豊かな暮らしにステップアップできるのはまだごく一握りの人たちだけなのだという。
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短い滞在期間だったけれど、SOWETOでのホームステイは、私の旅の中で、人生の中で、最も衝撃的な経験の一つになった。SOWETOの人たちの抱える問題に比べたら、日本人の悩みなんて本当にちっぽけなもんだなあ。もっと一日一日を楽しく、強く生きなければ駄目だなと思い知らされる体験だった。
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