高達潔のソウェトウオッチング44 ソウェト・ツアー事情 その10

ホワイト・シティーからソウェタン憩いの場所、トコザ・パークへ

ジャバブ地区にある蒲鉾型の家は3軒長屋ですが、その壁が白いことから、その家がある辺りは通称ホワイト・シティーと呼ばれています。ホワイト・シティーは不良が多いので危ない、あの地区は他のソウェトとは違うから気をつけろと言われていましたが、私は不良ですと言う看板をぶら下げている人がいる訳でもなく、他の地区と雰囲気が違う訳でもなく、家の形がちょっと変わっているな~という程度の違いです。

路上八百屋のおばちゃん達
路上八百屋のおばちゃん達

そのホワイト・シティーを抜けると、トコザ・パークに出ます。トコザ・パークは道路によって幾つかに分れており、クリケット場があるエルカスタジアムは、ワールドカップの時のファンパークになりました。トコザ・パークというと、オールド・ポッチェフストローム沿いのモロカ警察署の並びで、緑が多く、池と小川があり、週末にはブライ(南アフリカのバーベキュー)をする人達がいたり、結婚式の記念撮影に来たり、時々コンサートがあったりする、ソウェタンの憩いの場所です。ワールドカップ時にはその公園にも大型のテレビが置かれ、FIFAのファンパークとは別にタウンシップテレビというワールドカップ無料観戦場になっていましたので、ネルソン・マンデラ元大統領の写真があるその公園の写真を新聞などで見た人がいるかも知れませんね。ちなみに私は、あるテレビ局の仕事で極寒の中にバファナバファナ対ウルグアイの試合を、そこのテレビで観戦しました。

ソウェトで最も有名な場所の一つレジナ・ムンディ教会

レジナ・ムンディ教会周辺
レジナ・ムンディ教会周辺

トコザ・パークの隣には、ソウェトで最大のカソリック教会、レジナ・ムンディ教会が建っています。レジナ・ムンディとは、ラテン語で世界の女神という意味だとか。この教会は6,000人がミサに出席できるという大きな教会で、ポーランド大統領夫人から寄付されたステンドグラスがあり、ブラック・マドンナの絵(アパルトヘイト時代に、オッペンハイマー家の当主ハリー・オッペンハイマーの依頼で画家が描いた、黒人のマリアとキリストの絵で、下の方の絵はソウェトを表している)が有名です。
アパルトヘイト時には、ソウェト蜂起の犠牲者の葬式など何回も合同葬儀が行われ、反アパルトヘイト活動家がミサを利用して集会をやったりしていましたので、反アパルトヘイト集会を阻止する為に、警察の襲撃を受けた事もあります。この教会内では虐殺は行われませんでしたが、警官隊が解散を要求した時に、銃座でたたき割られたテーブルや、天井の数か所に残された、威嚇射撃の弾の後を見る事ができます。
この教会でのデスモンド・ツツ大司教のお祈りや、反アパルトヘイト運動のリーダー、ドクター・モタナの演説などの映像、ソウェト蜂起時に学生たちが逃げ込んだ時の写真、ソウェト蜂起追悼記念式典を反アパルトヘイト集会になるという事で警察が襲撃した時の映像・写真は、アパルトヘイト博物館やヘクター・ピーターソン博物館などで見る事もでき、ソウェトで最も有名な場所のひとつです。教会の2階には、1950年代~ソウェト蜂起の時代~アパルトヘイト後の写真のエキジビションがあり、それも見所の一つです。
元々キリスト教会は誰でも受け入れる所で、カソリック信者ではない単なる観光客、異教徒であっても入る事ができます(但し、ミサや何かイベントをやっている時には関係者以外は入れません)。教会なので入場料は無料ですが、かつては見学後、神父さんがいる建物の献金箱に献金を入れていました。教会の人が案内してくれた時には、その献金の事も教えてくれますが、案内者が誰もいない時や他の人の相手をしている時でも自主的に献金していたのですが、ワールドカップの影響で観光客が増えたせいか、最近では教会内に入った所に係の人がいて、博物館で入場料を取られるように献金をお願いされ、世知辛くなったとも言えます。しかし、ツアーガイドとしてはお客さんを連れて行きやすくもなるので、有難いとも言えます。

ソウェト(Soweto)
南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグ市にある地域。地名の由来は“South Western Townships”(南西居住地区の短縮形)。アパルトヘイト政策によって迫害されたアフリカ系住民の居住区として知られる。観光では、ソウェト蜂起の際に警官に射殺されたヘクター・ピーターソンや反アパルトヘイト運動を率いたネルソン・マンデラの記念館が有名。

風まかせ旅まかせ Vol.6 これからも“旅ごころ”を大切に

本号から、誌面を大幅にリニューアルいたしました。
リニューアルにあたり、是非とも“旅ごころ”のわかる作家に、寄稿してもらいたいと考えていました。自分の気持ちの中に何人かの候補者がいたのですが、その筆頭が沢木耕太郎さんでした。幸い沢木さんを良く知る友人がおり、その友人を介して沢木さんに原稿の依頼をすると、快く引き受けていただくことができました。
私自身、沢木さんの本との出会いは30年以上前になります。二十歳前後の頃、「敗れざる者たち」「人の砂漠」それから続く、代表的なノンフィクション作品の一つ「テロルの決算」を読んだときには、自分は生涯この作家の本を読み続けよう…と、人生のささやかな楽しみを見つけた思いでした。その後ベストセラー「深夜特急」へと続きます。実は沢木さんが“深夜特急”を発表した当時、出版社のパーティで立ち話をしたことがあります。私自身も沢木さんより少し後に、逆コースではありますがほぼ同じコースで、同じような期間、ユーラシア大陸を旅した経験があり、文中に出てくる安宿に泊まった話など、大変楽しい時間でした。
その後、写真集「天涯」や「凍」「旅する力」など最近の作品に続きます。何年か前に出されたノンフィクション全集も持っていますので、おそらく代表的な沢木作品の、ほとんどを読んでいるのではないか、と自負しています。
その沢木さんに、本誌のために書いていただきました。感無量です。
人との出会い、縁の不思議を感じます。2011年も、道祖神はアフリカニュースの発信、より魅力的な旅の提案をしてまいります。
これからも応援よろしくお願いいたします。

1977年 イスタンブールにて
1977年 イスタンブールにて

悠久の大地 セレンゲティ滞在型 サファリ

『悠久の大地セレンゲティ滞在型サファリ9日間』にご参加頂いた、中西 安男 様からのツアーレポートです。
成田から2名、関空からは私と添乗員を含め6名がクリスマス・イブに出発。ドバイの空港で成田からの参加者と落ち合い、ケニアに到着です。ナイロビから国境を越えてアルーシャまでの道のりは、道が悪く大変でした。しかも、アルーシャに入って後少しでホテルという所で、なんと車がエンスト。代車の手配やらなんやらで、添乗員さんがいてくれて本当に助かったと安堵しました。
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アルーシャに泊まり、翌日は軽飛行機で一気にセレンゲティに到着です。軽飛行機は荷物制限が厳しく、私は撮影機材だけでかなりの重量だったのでヒヤヒヤしてましたが、これも添乗員さんの計らいでなんなくクリアでした。
3泊4日のサファリで利用したロッジは、出発前に急遽変更となったBILILA LODGEです。タンザニアでもトップクラスのロッジだそうです。なるほど豪華なロッジで、特に不満はなかったのですが、ただ、サファリの主要エリアから少し離れているのが問題でした。
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一度だけ、日の出前にロッジを出発する早朝サファリをしましたが、主要エリアまで距離があるため、動物のバックに朝陽という光景は、時間的に間に合わないという難点があったのです。
でも、サファリ自体は満足できるものでした。連日ヒョウは観察できたし、チーターや移動中のヌーの群れも見られ、シマウマ、インパラ、ハーテビーストなどの親子も観察できました。私はクリップスプリンガーとオオミミギツネが撮影できたことが印象に残っています。ケニアについで2回目となるアフリカでしたが、果てしない平原の意味をもつセレンゲティは、期待を裏切らない魅力いっぱいの大地でした。
写真無断転用・転載を禁ず
写真の詳細はこちら。
「悠久の大地セレンゲティ 滞在型サファリ 9日間」ツアーページはこちら。
タンザニアのツアー・旅行一覧はこちら。
サファリ・動物がテーマのツアー・旅行一覧はこちら。

新年のご挨拶

皆様、明けましておめでとうございます。
南アフリカに暮らしていると、平成という年号を使う事が無く、ゆえに今年が平成何年かというのは、カレンダーを見ないと分らず、って壁に掛けてある日本から来たカレンダーを見たら平成何年か書いて無い、日本大使館から貰った外務省のカレンダーも外国用で書いて無い...やっぱり外国に暮らしていると不要なのでしょう。
そして、干支ってのも、南アフリカでは使いませんから、大晦日近くまで今年の干支がウサギ(辛卯)年だってのも知りませんでした。ウサギだったらお任せ下さいって位、我が家にはウサギがいるのですが、南アフリカ在住なので干支とは関係無しですが、我が家のウサギ達が今年も宜しくって挨拶しています
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どんだけ沢山いるかというと、
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これでも、この国の大統領の子供の数よりも少ないのです....
JNB高達 2011年元旦

2010.08.14発 湾岸西アフリカ4ヶ国訪問ダイジェスト15日間 その3

いよいよ4ヶ国目、最後のナイジェリアへと向かいます。国境でまたもやスタッフと車が変わります。「陸路、ナイジェリア入国」アフリカ大陸の旅行ルートの中でも、話題に事欠かない難所です。たっぷり2時間、様々な難癖をつけてくる役人達をなだめ、すかし、根気よく面倒なやり取りを続けて、ようやく無事に突破する事ができました。事前に皆様には伝えていたものの、やはり全員どっと疲れてしまいました。。。
晴れてナイジェリア入国後は、一路アベオクタという街へ向かいます。この街は、この地に住むヨルバ人の言葉で「岩の下」という意味が有ります。その名の通りオルモ・ロックという巨大な岩を中心に街が広がっています。このオルモ・ロックは街のシンボルでもあり、ヨルバ人にとっての聖地のひとつであり、岩に沿うように多くの祠が作られ、ヨルバの神々が祀られています。現在でも、このオルモ・ロックはアベオクタの人々にとって、大切な聖地であると同時に、人気スポット(?)ともなっています。大きな岩の上まで行くと、アベオクタの街が一望出来る為、他所からの観光客だけでなく、地元の人々も良く訪れる名所となっています。岩の頂上まで登るのは結構大変ですが、何とエレベーターまでが備え付けられています。
また、この街はナイジェリアきっての文化都市でもあり、伝説の闘う歌手フェラ・クティや、ノーベル賞作家の詩人ウォーレ・ショインカなど世界的な人物を輩出している土地でもあります。他にも、藍染めの産地としてもしられ、とても質の良い藍染め製品を手に入れる事も出来ます。
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翌日は、アベオクタを出発して、オショボの街へと向かいます。オショボの街は、たくさんのアート・ギャラリーやアート・スクールがあり、静かで緑の多い町です。郊外にはヨルバの神々を具象化して祀ってある原生林が広がり、この「オショボの森」はユネスコの世界遺産にも登録されています。森の中には、2~3年前に亡くなったオーストリア人の女性彫刻家、スーザン・ウェガーさんの作品が幾つも置かれています。不思議と森の景観にあっていて、本当にこの森に住むヨルバの神々が実体を持って世に出て来たような気さえします。森の奥には社もあり、そこにはこの聖なる森の守部の人達が今でも住んでいます。更に最奥部には聖なる河が流れ、その河辺には豊穣の女神『オシュン』の石像が両手を広げて佇んでいます。毎年、この8月の時期には、この聖なる河の水を汲みに世界中からヨルバの神々を信仰する人々が集まり、一大フェスティバルが開かれます。
普段は静かで緑に包まれたオショボの街も、この時ばかりは他のナイジェリアの街同様カオスが訪れます。森の奥から、神聖な太鼓の音が昼夜を問わず鳴り響き、各地から集まってくる王族や神官達の出で立ちも見物です。
アフリカ大陸にお祭りは数あれど、この「オショボ・フェスティバル」は必見です!直前まで、なかなか日程が決まらないのが辛いところですが、ご興味のある方は是非、道祖神までご相談ください。
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さて、オショボの森にも別れを告げて、向かった先が今回の旅行の最終目的地でもある「ラゴス」の街です。ナイジェリア最大の都市にして、人口1000万人を超える、アフリカでも3本の指には入る大都市です。
「コンクリートジャングル」という言葉がこれほど良く似合う街は他には知りません。ほんの少し滞在しただけで、この街の喧騒と混沌に中てられて、ふらふらになってしまいそうです。この街を歩いてみると、剥き出しの鉄筋ビルが無秩序に建ち並び、朝から晩までぎっしりと車が渋滞し、怒号とクラクションが響きわたり、道端のスピーカーからは割れそうな勢いで音が鳴っています。騒音・怒声・喧騒・腐臭・その他諸々が一体となって、人間の生活音でポリリズムが奏でられています。とにかく、人間がただ日々を生きているパワーに圧倒され、清潔も不潔も、浄も不浄もないような何だか良く分からないギラギラしたエネルギーが渦巻いています。 ナイジェリア最大の商業都市で、西アフリカ経済の中心地と言っても過言ではありません。
と、同時にナイジェリア大衆文化の中心地でも有ります。ラゴスは、世界中で愛されているアフロビート音楽の発祥の地でもあり、「ノリウッド」と呼ばれる一大映画産業の街でもあります。他にも、独特の造形感覚で知られているブロンズ彫刻も、アートとしてレベルが高く、20世紀の美術に与えた影響は大きいと言われています。また、いわゆるカラフルな布地を使ったアフリカンファッションでも、ラゴス発のデザインは洗練されていて、街ゆく人々のファッションからも目が離せません。
伝統文化・現代文化が共に高いレベルで混在している、有数のアートの街でもあります。経済、文化、政治、貧困、犯罪、貿易そういった様々な要素が、混沌と入り混じっているラゴスの街そのものが、このナイジェリアという国の縮図なのかもしれません。
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とても内容の“濃厚な”西アフリカ湾岸4ヶ国の締め括りにふさわしい街でした。そして、このラゴスからドバイ経由で日本へと帰路につくのですが、それも一筋縄では行かず、またも出国時にたっぷりとナイジェリアの役人達に苛められてしまったのでした。しかし、何はともあれこの「タフさ」が、つくづくアフリカ旅行の魅力だと思います。
道中のトラブルにイライラさせられる事も多かったですが、訪れる街・見るもの、得体の知れない妖しさに溢れ、食べるもの、着るもの、住む家までもが、形容しがたい魅力に包まれていました。
決して快適な旅行ではなかったかも知れませんが、「これぞアフリカ!」と人に自慢できる旅になったのではないかと思っています。
皆様も、真っ黒くて濃ゆい西アフリカの旅へ是非、一度覗いてみてください。
生野