アフリカ中央部カメルーン、山奥の村の宮殿に住む王様

アフリカ大陸のほぼ真ん中に位置する国『カメルーン』。真っ先に思い浮かべるのはサッカーですが、南北に細長い三角形の国土は、標高の高い高原地域や熱帯雨林に、サバンナが広がるエリアもあれば火山地域まであり、アフリカの中でもこの国ほど地形と気候帯で多様性を持つ国は少ないでしょう。この国はアフリカの縮図とまで言われています。
それだけに旅をするには打ってつけの見どころが多い国ですが、今回ご紹介するのは北部カメルーンにあるウジラという村。4WDでしか登って行くのが難しいような悪路の峠道に囲まれた険しい山の中にある村です。この村にはポドコと呼ばれる人々が住んでいて、キリスト教やイスラム教を受け入れることなく、古来より自分達に伝わるアニミズム-自然崇拝を信仰している人々です。山の上には宮殿があり、御年99歳を迎える村の王様が今なお健在です。この王様、お年を召されているのに、ひときわ身体も大きく、全身に纏っている雰囲気には得も言われぬ迫力がありますが、驚かされるのは何と奥様の数が50人以上(!)
奥さんも子供も孫もひ孫もすべて一緒に宮殿内で生活していて、宮殿といっても昔ながらの土壁のシンプルな住居なのですが、家族が増える度にどんどん増殖を続け、もはやとんでもない事になっています。写真は3年前ほどにお会いした時の様子ですが、後ろは皆さんご家族。わりと気さくな王様で、一介の旅行者でも謁見を許される事が多いのですが、見渡す限りのご家族に囲まれての謁見は、何とも不思議な緊張感があります。握手して頂いた手も岩のように固く、あの様子ではまだまだパワフルに長生きされそうです。アフリカを旅していると、たまに想像を絶する人物に出会う事がありますが、この王様も然り。「人間力」なんて言葉を簡単に使ってはいけないと思い知らされてしまいます…。

世界遺産にも登録!南部エチオピア 「コンソ」の人々

南部エチオピア、「コンソ」という自らの部族の名前を冠した街を中心に、丘の上方に家を築き、斜面や低地に作った畑を耕し暮らしているコンソの人々。
コンソの村には、歴代の王、ライオン・ゾウなどの大型動物を狩った狩人、敵対する部族との間に起きた戦で活躍した英雄などを象った、「ワカ」という硬い木を彫って作った木像があります。各故人の墓の上に安置されたワカは、死後も静かに村を見守っているかのようです。
コンソの村々がある地域も「コンソの文化的景観」として世界遺産に登録され、以前に比べてはるかに多くの観光客が訪れるようになりました。共同体として完璧に機能している社会でガイドをするのは、村が許可を与えた地元出身のガイドのみ。のはずなのですが、現金収入を求めて自ら観光客に売り込みをかける自称ガイドも増えているそうです。
訪れる人が多くなれば、それなりにトラブルも増えるというわけで、コンソの人々の宗教観を表す拠り所としての「ワカ」も、心ない観光客によって持ち去られてしまったものも少なくないそうです。プリミティブ・アートとしての芸術性も明らかに高いですからね。でも、その土地の人々にとって大切な物は、その土地にあって、その土地で拝見するからこそ価値がある、ということを何故わからないのでしょう?インテリアとして、自宅で眺める「ワカ」ほど、価値のないものはないと思うのですが・・・。

私にとって、アフリカらしい人、風景、モノ by 大阪営業所 有冨

素朴でゆたかな生活がある。
牛は乳と肉のためのものだと思っていたら大間違い。りっぱな子供の移動手段だ。牛を乗りこなすのは馬よりも難しいと少年は誇らしげに説明してくれた。私には牝牛が少年の面倒を見てくれているようにも見えた。

エチオピアは歴史遺産、民族・文化、自然がバランスよく多彩な魅力を持つ国

先日、エチオピア北部の歴史遺産のお話を投稿しましたが、エチオピアほど、歴史遺産・民族・文化、自然の、観光の柱といえる3つの分野全てにバランスよく魅力があり、多彩な見所を持つ国もそう多くはありません。
特に北部の歴史遺産・エチオピア正教文化と、南部の民族・文化はコントラストがありすぎて、同じ国とは思えないほどです。
ケニアとの国境にほど近い南部エチオピア・オモ川下流域は、化石人骨が発見され、「人類のゆりかご」の一つと言われています。もちろんユネスコの世界文化遺産に指定されていますが、このオモ川流域には、今なお自らの固有文化と伝統的な暮らしを固く守る人々が多く暮らしています。固有文化を持つエスニック・グループがエチオピア南部だけで40以上あると言われています。
このエチオピア南部へのツアー、弊社でも「南部エチオピア オモ・マゴ探索隊 14日間」として、毎年夏に企画しています。弊社がこのツアーを始めた当時は、世界中のどの旅行会社もまだこの地方へのツアーは行なっていなかった、弊社のオリジナルツアーです。

近年、このオモ川に巨大なダム建設が計画され、現在半分程度完成しています。大型工事が計画されるとなれば、道ができ、外部からの様々な文化が流入し、この地域の人々が長年守ってきた文化も、急速な変化を余儀なくされている状況です。もちろん、観光客が彼らに与えるインパクトも小さくはないでしょう。
下唇に陶器を嵌めたり、素っ裸で暮らしていたり、観光客の目には珍奇に映り、興味本位の目線や写真の被写体としてさらされることが多い人々とその生活です。ですが、弊社のツアーでは、そんな好奇の目線を超えたところにある、彼らの誇り高い暮らしを、皆さんに知っていただき、様々なものを感じ、日本に持ち帰っていただければと思っています。
エチオピアのツアー一覧はこちら。

人間の原点を捜す旅~ハッザとの出会い~

2011年6月13日発、タンザニアの狩猟の民、ハッザの村に滞在された生井貞行様からのレポートです。弊社のツアー「タンザニア・狩猟民“ハッザ”と歩く大地溝帯 10日間」のアレンジで、ハッザの村に長めに滞在されたオリジナルのプランです。
出会い
ブッシュが広がる乾燥したサバンナにはアカシアがよく似合う。照り付ける太陽の下、風が吹くたびに細かい砂が舞い上がる。ここはタンザニア・エヤシ湖の畔。ガイドのバッガーが口笛を吹く。それに応える口笛がどこからともなく風にのって聞こえてくる。音はすれども姿は見えない。バッガーが指をさした方向を見た。そこにはただブッシュがひろがっているだけ。そこに向かって歩くバッガーの後を追いブッシュの中へ入っていく。すると突然草木の陰に母と子が座っていた(写真1)。ハッザである。近くのブッシュの陰には男性たちがいた。狩で使う弓と矢の調整をしていた(写真2)。住居は枝を絡ませた骨組みに草をかぶせたものであった(写真3)。私はハッザとの出会いにまず衝撃を受け、そして感動した。
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ハッザ民族とは
ハッザの人々はアフリカ西部大地溝帯にあるタンザニアのエヤシ湖周辺に昔から暮らしてきた。今は1000人ほどがここで生活している。その四分の一の人が今でも狩猟・採集生活を営んでいる。農耕はせず、家畜も飼わず、定住する家も持たない。また家財道具は鍋、水を入れる容器(写真4)などと狩猟のための弓や矢、斧、ナイフ(写真5)であり、生活する上での必要最小限な物だけである。男性たちは夜明けと黄昏時の二回、狩猟に出る。また蜂蜜の採集も男性たちの役割である。女性たちはバオバブの木の実の採集や根菜類の掘り出しそして水汲みが主な役割となっている。食べ物は一日に二回、食べるだけの量しか獲らず、皆で分け合う。ハッザは居住地を転々と移す。乾季は草原に居を構え、雨季には高台に居を移す。いっしょに暮らすのは家族や友人など、ゆるやかな絆で結ばれた集団であり、多くて30人程度である。自然とともに生きるハッザ。ハッザと自然との関わりを知りたくて旅に出た。
参考文献「National Geographic 2009年12月号」
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水汲み
ハッザの女性たちと水汲みに出かけた。鍋とポリバケツを持ち、水場に向かって炎天下の中、歩いた。女性たちは世間話をしながら楽しそうに歩く(写真6)。居住地を出てから30分ほど歩いたら、バライ川についた。水は流れていない。水の無い川を上流に15分ほど歩く。本流と支流の合流点と思える場所に着いた。女性たちはそこに座り込み、水の無い川底を掘り始めた。しばらくしたら水が湧いてきた。水をすくい鍋やポリバケツに入れていく。1時間ほどで満タンとなった(写真7)。容器から水がこぼれないように草でふたをして頭の上にのせて帰途についた。四人合わせて20リットルの水が確保できた。水汲みは朝夕二回行われる。一回の水汲みにかかる時間は3時間30分ほどである。バオバブの木が繁るブッシュを満タンの水を入れた容器を頭の上にのせてゆっくりとハッザの女性たちは歩く(写真8)。ブッシュの草原に「ポレポレ」の詩が流れる。
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蜂蜜取り
カヌゥアという木に蜂は巣をつくり、蜜をためる。事前に木の幹に穴をあけ、蜂が巣をつくりやすいように細工をしておく。そしてしばらくしてからできた蜂蜜を採取するのである。ハッザにとって蜂蜜は貴重な栄養源である。また婚礼の際に、蜂蜜を女性方に贈るのがしきたりである。ハッザは母系制社会を基礎とした婿入り婚である。シャクワが蜂蜜取りに連れて行ってくれた。シャクワは5家族11人のグループの首長である。山の斜面を下草をかきわきながらすすんだ。シャクワにはカヌゥアが植わっている場所は分かっている。そのため簡単にカヌゥアを見つけることができた。斧を手にかざし木を切り始めた(写真9)。そして蜂蜜を手に入れた(写真10)。シャクワは採集した蜂蜜を木の皮にのせ私にさしだし「なめてみるか」とすすめた。私は「No thank you.」と答えた。行きずりの旅人がハッザの貴重な嗜好品を消費するわけにはいかない。
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根菜取り
岩山に住むハッザを訪問した。グループ名は長老の名が付けられ、マンボスという。6家族11人が居住している。ハッザの間では乾季には岩山から草原に移動するのが一般的であるのに、このグループは岩山に住んでいる。その理由を尋ねたら、食料が獲れるとのことであった。軽く納得した。テッタとクリック、テヌーが根菜取りに連れて行ってくれた。根菜はハッザの言葉でシュムクワという。居住地から5分程歩いた。ブッシュの根元を三人が木の棒で掘り始めた(写真11)。根元をよく見たらツルがのびていた。そこを40cmほど掘ったらジャガイモのような根が取れた(写真12)。バッガーは「ブッシュ ポテト」と説明してくれた。食べてみた。生のジャガイモの味がした。自然の「家庭菜園」に囲まれたハッザの生活環境を学ぶことができた。
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狩猟
「明日、狩りに行く。いっしょにどうだ。」と誘われた。もちろん「OK」と返事をする。「ところで、出発は何時だ。」とバッガーに聞く。バッガーは肩をすぼませ「ハッザには時刻はない。」と私に答えた。愚かな質問をしたものだとつくづく思った。翌日、陽が昇る前、暗いうちにハッザの居住地に行った。シュムクワ、ンネクゥネティそしてネッスイカが焚き火を囲んで狩りの準備をしていた。暗い中、出発した。足早で丘を登る。そして丘を下る。山の斜面を横切り、駆け下りる。川を渡り、崖をよじ登る。私ははぐれないように彼らの後をついていくのに必死であった。足元には鋭い刃先をもった草が茂る。何度かスネが傷つく。足元に注意していると今度はアカシアのトゲで頭がやられる。帽子が飛ばされ、くびに巻いたタオルが引き裂かれ、パニック状態に陥る。そんな中、彼らを見失った。周囲を見回しても彼らがどこにいるのかわからない。どうしょう。そんな時、口笛が聞こえた。時々、口笛を吹いてお互いの居場所を確認するのだ。リーダーのネッスイカが立ち止まり、獣道を観察していた。湿ったフンが落ちていた。獲物が近くにいる。ネッスイカは他の二人に指示を与えた。獲物を見つけたらしい。緊迫した状況であった。狩りにはお互いの役割分担がある。獲物を取り囲んで捕獲しようとしているのだ。私は狩りの邪魔にならないように息をひそめ、うずくまり、動かずにいた。木の上にブッシュ・ベビー(サルの一種)を追い詰めた。獲物はもう逃げられない。隣の木までの間隔が広すぎて飛び移れないのだ。三人は獲物めがけて矢を放った(写真13)。その日の収穫はブッシュ・ベビー五匹と野鳩一羽であった。帰る途中、木の陰で休憩をした。朝食の時間なのだ。そこでネッスイカは板切れに木の棒を押し当て、手の平を使ってキリを使うように力を入れ回した。火をおこしているのだ。しかしなかなか火はおきない。シュムクワが交代した。それでも火はおきない。見かねたバッガーがマッチを取り出し、火をつけた。すぐに火は燃え上がった。私とバッガーは目を合わせ、ニヤリとした。焚き火で獲れたてのブッシュ・ベビーを丸焼きにして食べた(写真14)。居住地に帰ったのは太陽が真上に昇ったころであった(写真15)。何時なのかは覚えていない。私もハッザと同じように時刻から自由になっていた。
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ハッザから学んだこと
大量生産・大量消費・大量廃棄の道をいまだに突き進んでいる近代社会の最終到着駅には、貧富の差の拡大と環境破壊という地球と生物にとっての危機的状況が待っていた。物にあふれた便利な生活。満たされた欲望は次の欲望を生むという欲望の底なし沼に陥ってしまった状況からいかに這い出すのか、克服されなければならない多くの課題にわれわれは今、直面している。ハッザの人々は生きていくのに必要最小限なものしかもっていない。また火をおこすのにも生活用水を得るのにも時間と労力を費やしている。ハッザの人々には貧富の差もなく、お互い助け合いながら生活を築いている。しかもその生活は便利な生活とは程遠い。しかし便利な生活と幸せな生活とは別なものであるということをハッザは私たちに教えてくれている。人と人との間に大切なものは何か。幸せとは何か。ハッザは重要なことを私たちに発信している。それを真正面から受信する必要のある時代状況である。
残念なことにハッザの人々の生活を脅かす状況が生まれている。私有地の拡大と国による生物保護地区の指定によりハッザの人々の生活領域が狭められているのだ。ハッザの人々の今後の動向について注視していきたい。
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