78歳タッシリ・ナジェールを行く

タッシリ・ナジェールのツアーにご参加頂いた、岩井信子さんからのツアーレポートです。
タッシリ・ナジェールは、私が十数年来、夢見つづけてきた地である。
地球上に世界遺産は数多い。だが私は権威の象徴たる遺跡、賛を尽くし天を衝くような建造物などに興味はない。タッシリに現存する絵、古代人が岩に描いた岩絵は、人の暮らしの「遺産」である。すべての人が平等に、主体的に生きた古代の、日常生活の遺産である。しかもその絵は、かつてサハラが緑ゆたかに水流多き大地であったことを証明する。即ちサハラの歴史を、引いては地球の返遷を語る遺産である。この壮大なロマンに私は魅せられてやまなかった。
タッシリの岩絵の存在を知った時期、私はエチオピア奥地に石器時代さながらの暮らしを営む少数民族の探訪に没頭していた。その当時の私は「遺跡は変化しない。が、人の暮らしは急速に変わってゆく」と、エチオピアを優先させてきたのであった。
念願のタッシリ行きが実現したのは、昨年(二〇〇八年)。一二月二十六日関空を発った。南フランスのマルセイユから地中海を横断し、ニジェール国境に向かう空路、眼下にひろがるアルジェリア領サハラは、底知れぬ神秘を射放っていた。タッシリへの基地、一夜を過ごすオアシスの町のホテルは、壁に魔法のランプが灯っているのでは?と思わせるたたずまいであった。
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岩絵のある台地へは、名にして負う急峻な峠を登る。十頭のロバに荷を積み、私たちは水とカメラ程度の軽装で、胸躍らせて麓に立った。そして峠を見上げて絶句した。この峠がただならぬ難所であることは知っていた。累々たる大岩が今にもなだれ落ちそうに峻険。道なき岩山。これを喘ぎ喘ぎ登った壮年男性の体験記も読んでいた。破れんばかりの心臓音が聞こえるような手記であった。それにしても!予想と覚悟を絶する山の姿にさしもの私も一瞬怯んだ。「78歳が来るところじゃなかったか?」
が、懸念は無用だった。山に取り付くと不安は吹き飛んだ。八人の現地スタッフは、ガイドをはじめ実に優秀である。誠実で的確な仕事ぶりは申すに及ばず、絶対的な信頼のおける人たちである。その上、人一人くらい、片手で軽く受け止められるほどに鍛え上げられた頑強な体躯の持ち主。私は“安心して命を預けられる”と実感した。78歳の私が彼らに援けられ、同行の仲間に励まされ、難なくこの難所を踏破したのである。
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岩絵の場所は夥しく、岩絵の数は殆ど無数と言ってよい。どの絵も躍動感にあふれ、その臨場感に息をのむ。目鼻は描かれていないのに、遊ぶ子どもの声や人の会話、叫び声、動物のいななきや疾走する地響きが聞こえ、今にも砂煙りが巻き上がって来るようである。古代人の高い表現能力に私は酔い痴れた。また、精神世界を思わせる絵、死生観や思想にいざなう絵など、近々を古代人に見え、その息使いが耳を打つような感動の連続であった。
しかも、この遺産が、柵一つめぐらさず、ロープ一本張るでなく、野放し同然に開放されているのである。私は一人でも多くの人が、アルジェリアのこの厚遇に俗することをおすすめしたい。国によっては、遺跡現場には人を入れず、絵はレプリカにして観覧に供していると聞く。
岩陰でのテント泊も、これまた実に楽しいものであった。毎夜焚火を囲み、火明かりにスタッフと集う団欒には、時を忘れた。茶葉をぐつぐつと焚火で煎じた民俗茶は、就寝前の体を芯から暖めてくれた。
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毎食、コックが作ってくれる食事は「これが不毛の地、砂漠での食事か」と目を瞠るほど、多彩で新鮮、そしておいしかった。何よりレモン酢がふんだんに使われ、なお二つ割りのレモンがドンと添えられているのには、感動しきりであった。「家にいるときより栄養状態がいい」と話し合ったことである。
ただ一つ、残念なことは、遙かな時をへて、岩絵が風砂に削られ自然消滅が進行していることである。今のうちに何か復元できないものか、切にそう思う。
私はもう一度、ぜひ行きたいと思っている。見落とした絵や撮りこぼした風景がある。タッシリナジェールには、些細な悔いも残したくない。もう一度行って、この絵を描いた古代人と、これほどの遺産を惜し気もなくオープン「展示」するアルジェリアに、敬意を表したい。
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