風まかせ旅まかせ vol.33 不思議な縁

今号の特集では、京都大学総長・霊長類学者の山極先生にご登場いただいた。いつも多忙な方だと思うが、弊社の小さなセミナーや講演会をお願いしても、気軽に応じてくれる。その気さくな人柄と豊富な現場体験による幅広い知識から話はいつも面白く、弊社のスタッフにも、お客様にもファンが多い。
実はその昔、ネパールで雪男探しを真剣にやっていた知人が、雪男の骨なるモノを日本に持ち帰ったことがある。私から山極先生に相談したところ、「それは面白い!まだまだ未知の霊長類はいるからね。ぜひその骨を送ってよ」と言ってくれた。私はその時から山極ファンになった。
私自身が初めて撮影隊のコーディネートをしたのが、山極先生とも縁の深いアフリカのルワンダだった。1989年のこと。文中にもある、ダイアン・フォッシー女史の半生を描いた映画『愛は霧のかなたに』の舞台を追いながら、野生動物(ゴリラ)と村人との共存について現場の声を一つずつ拾っていくという地道な報道取材番組だ。1985年の事件現場ともなったカリソケ研究センターにも何日か通い、事件の背景や当時の状況を政府関係者や研究者、また保護地域に近い村人に取材するなど、非常に生々
しい体験だった。
ルワンダには1週間ほど滞在し、偶然ではあったものの当時のジュベナール・ハビャリマナ大統領にお会いする機会も得た。(何年か後、大統領を乗せた専用機がキガリ空港での着陸間際に地対空ミサイルで撃ち落とされたニュースを聞いたときは、温厚な大統領の顔が重なり大変ショックだった)。
当時はまだインターネットやメールも無く、リサーチや関係者とのアポイント、様々な許可申請の作業は現場でのハードな交渉が多く、コーディネーターの力量が試される非常にタフな仕事だった。同時に大変充実した、生涯忘れることのない仕事となった。
その取材旅行に持って行った唯一の本が、山極先生の『ゴリラ』だった。40周年の今年、アフリカを通じて当時の山極先生のお話も伺うことができ、懐かしいと同時に、不思議な縁を感じる。

ナイロビダイアリー no.24 ケニアの新聞

ケニア人はかなり熱心に新聞を読んでいる。遠く離れた日本を取り上げている記事も多い。今回は、日本のニュースを中心に、ケニア人が注目する記事をご紹介します。

FIFAワールドカップ

今年一番の話題は、なんと言ってもFIFAワールドカップだろう。サッカーが大人気のケニアでは、ワールドカップの時期になると街頭に大きなスクリーンが設置される。仕事帰りに立ち見する人が大勢集まって、得点のチャンスにはナイロビの街に地響きのような歓声が響き渡る。
サッカーに疎い私よりは、日本代表チームの選手名を知っている人も多く、中にはJリーグのチームや、各チームの選手の名前を言える人までいる。日本代表の誰々はどこの国のどのチームに所属している、なんて私に教えてくれるのだからすごい。
ベルギー対日本戦の後は、日本の健闘を称えてくれる人も多くいた。試合当日は、日本大使館がホールを提供してくれて、テレビを見ながら応援する機会まであった。残念ながら参加できなかったが…。

ケニアのニュース

7月下旬頃の新聞には、ヌーの川渡りの話題が頻繁に登場する。今年は雨季に例年以上の雨が降り続いたため、ヌーの川渡りが昨年に比べて1カ月以上遅くなったそうだ。最近になって、ようやくヌーたちがマサイ・マラへやってくるようになったとある。
残念ながら一般的なケニア人は、料金が高いのでマサイ・マラ観光は難しいが、それでもヌーの川渡りは、毎年注目される記事の一つになっている。日本でいえば桜の開花状況みたいなものではないかと、個人的には感じている。
この「DODO WORLD NEWS」が発行される9月中旬頃には、ヌーの川渡りも終盤に差し掛かっている頃だろう。

ヌーの川渡りが遅れているニュース
ヌーの川渡りが遅れているニュース

日本のニュース

世界的な話題となるニュースだけでなく、日本国内の問題も新聞記事になっていることが多く、私も時として思いがけない質問を受ける。最近では日本の猛暑について、「死者が何人も出るほど日本は暑いのか」と聞かれ、返事に窮してしまった。
西日本の豪雨で多くの方が亡くなったこともニュースになっていた。ケニアでも、今年の雨季は大雨だったので、多くの場所で冠水があった。「インフラが整っている日本で洪水になるような雨がケニアで降ったら、一体どうなっちゃうんだろう」なんて言ってた人もいる。

日本の猛暑についても詳しく説明
日本の猛暑についても詳しく説明

極東の日本のことなので、新聞でも小さな扱いのことが多いが、隅々まで熱心に読んでいるのだろう。日本人だとわかると、時事的な話題を振ってくる人も少なからずいる。昨年、眞子様の婚約内定の発表があったときには、「日本のプリンセスが結婚されるんですってね。おめでとう」と言われた。恥ずかしながらプリンセスと言われて、一瞬ではあるが、誰のことを言っているんだ?と思ってしまった。秋篠宮ご夫婦の長女である眞子様は、英語で表すとプリンセスになるのか、と思い直し、「よく知ってるね。どこで知ったの?」と訊いてみると、今朝の新聞に書かれていたそうだ。後で調べてみると、端っこの小さいスペースに、確かに眞子様の婚約内定の記事が載っていた。
日本のお年寄りのボディビルダーまで!
日本のお年寄りのボディビルダーまで!

ケニアにいるからといって日本のニュースを見ていないと、ケニア人に「日本人のくせにそんなことも知らないのか」と言われてしまいそうな気がして、日本にいる時以上に日本のことを頻繁に調べる癖がついてしまった。

Africa Deep!! 67 かつての辺境といつでも「つながる」現代という時代の不思議

フェイスブック、ツイッター、インスタグラム…いわゆるSNSは最近では多くの人たちにとってもはや日常生活になくてはならない必須のツールとなっている。
数年前、見知らぬ人からフェイスブック上で「友達申請」が来た。友人・知人以外は僕は基本的に「承認」しないことにしている。それでいつものように放っておいたら、何日か後にメッセージが届いた。「はい、オサム! 僕のことを覚えているかい?」という短文だった。怪しい…。こういうメッセージもわりとたくさん来る。応答しているうちに怪しいサイトへ誘導されるという手口だ。それで無視していたら、「あのときの旅は僕にとっても忘れられないものだったよ。今でもモロンダバの村で家族と暮らしています」というメッセージが続けて届いた。
モロンダバという村の名前は憶えている。このときになって初めてその人のアイコンをまじまじと見た。真っ青な空をバックに中年の黒人が写っている。名前は、ニリコとある。ニリコ、ニリコ…。「あっ!」と僕は思わず声をあげたように思う。25、26年前の記憶が一気にフラッシュバックした。「まさか、あのニリコ?」
アフリカを放浪旅行しているとき、マダガスカル西海岸を小さな帆船で航海したことがあった。航海といっても僕は操縦できないから、船主の漁師さんと助手兼通訳の若者が一緒だった。船を出してくれる漁師を探しているとき、たまたま知り合ったのが小学校の教員をしていたニリコで、英語とフランス語が話せた。学校が夏休みか何かで暇だったニリコは「僕も一緒に行きたい」と同乗したのである。帆船だから本当に風任せで、夕方になると小さな漁村や無人の浜辺に上陸してそこで野宿するという旅だった。村では子供たちに取り囲まれた。目的地へ着くまでいったい何日間かかったのかもう忘れてしまったが、途中で食料が尽きかけて白米に塩を振って食べたのを覚えているから、けっこうかかったのだろう。
ニリコとは下船した町で別れたきりだったのだが、どうやら彼はその後も教員を続けているらしい。同時に環境教育のNGOを立ち上げて活躍しているようである。SNSを通じて直接彼からそのことを知ることができる時代。便利なような怖いような…。
写真・文 船尾 修さん

船尾 修さん
1960年神戸生まれ。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。アフリカ関連の著書に、「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から」「UJAMAA」などがある。最新作の「フィリピン残留日本人」が第25回林忠彦賞と第16回さがみはら写真賞をW受賞した。
公式ウエブサイト http://www.funaoosamu.com/

「教」日本の中学生 エチオピアに行く

独自の暦を使い、独自の文字を持つエチオピアは、アフリカで唯一、植民地支配を免れた国。「デナ!(元気な)エチオピア」では、その個性豊かな文化を同国に長年暮らした白鳥くるみさんに紹介していただく。
子どもたちに「エチオピアの今」を見せたい。ガールスカウトのリーダーから相談を受けて、スタディツアーを企画した。彼女たちは長年、エチオピアの女の子の支援活動をしている。7泊8日のプログラムは、「ものづくりの現場を知る」「ボランティア・専門家の仕事を知る」「文化と食を体験する」「奨学生に会いに行く」「農業を知る」など盛りだくさん。奨学生が暮らす牧畜民地域へは治安が理由で行けなかったが、農村部の学校を訪問することができた。

訪問したアダマの中・高校
訪問したアダマの中・高校

「温暖化」を日本語で書いて説明
「温暖化」を日本語で書いて説明

海外に関心のある生徒が多い
海外に関心のある生徒が多い

スクールライフと夢

訪ねた中・高校は、オロミヤ州アダマにある男子430人女子500人の大きな学校だ。教科は日本とあまり変わらず、国語(オロモ語とアムハラ語)、英語、化学、地理、歴史、体育、情報などで、私たちがお邪魔した教室では地理の授業をしていた。黒板にはアムハラ語と英語で「地球温暖化」と書かれていた。「今やっている単元だ!」と共通点を見つけた日本の子どもたちは嬉しそうだ。先生は質問タイムも設けてくれた。エチオピア側からは、「宗教はなんですか?」「民族の数は?」「家の手伝いをしますか?」「広島に原爆を落とされたことをどう思いますか?」といった質問がつづき、日本側が答えに窮する場面もあった。
質問の定番?「将来の夢」の答えは興味深い。Q.あなたは将来何になりたいですか? A.エチオピア: エンジニア(男1女1)、医者(男2)、先生(女1)。A.日本:保育士、食品関係、弁護士、女優、研究者、キャビンアテンダント。多様な職業があがる日本に対して、職種の少ないエチオピア。経済の成長が若者に降りてこない現実に、子どもたちは夢を持ちにくいのかもしれない。

ワット(おかず)の種類が多い!
ワット(おかず)の種類が多い!

ダンスとインジェラ体験。美味しい!
ダンスとインジェラ体験。美味しい!

イメージががらりと変わった!

日本の子どもたちは、この旅で何を思っただろう。全員が「エチオピアのイメージが変わった」と言う。「都市部には日本車があふれ道路も整備されていた」「立派な建物が建っていてThe都会だ」「農家は雨季や干ばつを想定した農業を行っている」「田舎の風景や校舎はイメージ通りだったが、日本と同じくらい勉強している」「みんな好奇心が強く、エネルギーに満ちていた」。
「” 旅の目的地」というのは場所のことではない。新たな視点で物事をみる方法のことである”とヘンリー・ミラーは言っている。新たな視点を持った子どもたちが、これからアフリカとどんな関係を築いていくか楽しみだ。

AU本会議場で。スタッフの案内で会議も見せてもらった
AU本会議場で。スタッフの案内で会議も見せてもらった

エチオピアの教育制度(2018年4月現在)

■学校制度:小学校(8年)、中・高校(4年)、総合大学(4年)、専科大学(2~ 3年)※幼稚園(4歳から小学校入学前)
■義務教育:小学校(6~ 13歳)
■学校年度:9~ 6月/4学期制
■学校の種類:国立、公立、私立、キリスト教系、州立
■学費:義務教育は無償
■教授言語:主にアムハラ語、オロモ語、英語(州によって異なる)※高校・大学では英語
■時間割:小学校/月~金曜日。午前と午後の部があり、1カ月ごとに入れ替わる。中学校/午前5時間、午後2時間の計7時間
■放課後:都市部では、サッカー、バスケット、園芸、保健、生徒会などの部活動。農村では、水汲み、家畜の世話、夕食の準備など家の手伝い。
※参考:外務省ホームページ
文・写真提供 白鳥くるみさん

白鳥くるみさん
(アフリカ理解プロジェクト代表)
80年代に青年海外協力隊(ケニア)に参加。以来、教育開発分野で国際協力に力を注ぎ、多くの課題を抱えるアフリカのために何かできたらと「アフリカ理解プロジェクト」を立ち上げる。エチオピアを中心に活動の後、2015年、日本に拠点を移し本の企画出版などの活動をつづけている。

WILD AFRICA 38 セレンゲティは私の原点

私が本格的なサファリを体験したのは1993年の夏、高校卒業直後に父についてタンザニアに渡ったときのことだった。初めて訪れたセレンゲティ国立公園の想像を絶する広大さと、当たり前のようにゾウやキリンやライオンがいるという「現実」に心を揺さぶられたのを今でも鮮明に思い出すことができる。このときの体験が、自然写真家を志すきっかけとなった。
以来25年に渡ってアフリカの自然を撮り続けてきたわけだが、実は1998年以降セレンゲティには足を踏み入れていなかった。セルフドライブで単独行動をするには、国立公園の入園料や車などにかかる経費が高額になりすぎるというのが主な理由だ。しかし、昨年から道祖神でセレンゲティへの野生動物撮影ツアーをやらせていただくようになった。自分としては、ある意味原点回帰を果たした形だ。
約20年の時を隔てて再訪したセレンゲティは、やはり美しい草原や豊かなサバンナに数多の動物たちが暮らす野生の王国だった。コピーと呼ばれる花崗岩の岩場も、川辺にそびえるアカシアの巨木も昔と変わらずそこにあったし、ライオンやチーターがよく現れる撮影ポイントなども記憶していた通りだった。道路や空港、ロッジなどのインフラは随分と整備されたので、人と車の数は大幅に増加したが、それでもあの場所にはやはり色褪せない魅力がある。
ところで、私がガイドを務める撮影ツアーは、通常のサファリツアーと何が違うのかという質問をよく受ける。セレンゲティ国立公園とンゴロンゴロ・クレーターへのツアーに関しては、まず参加者数を4名に限定しているのが最大の特徴だ。使用するサファリカーは6人乗りなのだが、目一杯乗ってしまうと機材を置いたり大型の望遠レンズを扱うスペースが全然なくなってしまうためだ。また、一般的なサファリとは時間の使い方がまったく違う。動物をただ見て終わりではなく、もし相手が何か面白い行動に出そうだと踏んだり、光の条件が良くなりそうだと判断したら、車のポジションに微調整を加えながら一箇所に徹底的に居座ったりもする。そうすることでよりよい写真を撮れる可能性が増してゆくと考えるからだ。
写真は5月の後半に行ったツアーの際に、セレンゲティ南部のゴル・コピー周辺で撮ったライオンの新婚ペア。15分に一度のペースで交尾を繰り返していたので1時間ほど付き合わせてもらった。
撮影データ:ニコンD850、AF-S Nikkor 80- 400mm f/4.5- 5.6 VR、1/3200秒 f8 ISO500( 画角86mmで撮影)

やまがた ごう 1974年、群馬県生まれ。少年時代を西アフリカのブルキナファソ、トーゴで過ごす。高校卒業後、タンザニアで2年半を過ごし、野生動物や風景の写真を撮り始める。2000年以降は、南部アフリカを主なフィールドとして活躍。サファリツアーの撮影ガイドとしても活動している。写真集「From The Land of Good Hope(風景写真出版)」、著書に「ライオンはとてつもなく不味い(集英社新書ヴィジュアル版)」がある。日本写真家協会(JPS)会員。www.goyamagata.com