Africa Deep!! 47 エチオピアに美人が多い、という話は本当なのだろうか

旅好きの男同士の会話なら、きっとこういうのがあるはずだ。「で、どこの国の女性が一番美人だった?」 もしかしたら女性同士の会話にも、「どこの国の男が……?」というのがあるのかもしれない。いや、きっとあるはずだ。
美の基準は人それぞれだから、まあこの手の会話はだいたいが他愛のないものが多い。しかし、旅行者の間ではかなりの確信を持って流布している噂もまた結構あるものなのだ。たとえば、中南米の美人国ベストスリーといえば、コロンビア、チリ、コスタリカの3Cだよね、といった類の。
では、これをアフリカという括りにしたらどうなるか。僕はこれまで、ここがベストスリーだ、という話は聞いたことがないが、「この国!」というのは何人からも聞いたことがある。それは、エチオピアである。
かなり前にアジスアベバへ行ったとき、たまたまミス・アジスアベバのコンテストがあるという話を聞きつけた僕は、現地に駐在する友人ら四人でそれを観に行った。高級ホテルに設置されたショウの舞台はなかなか本格的で、鼻の下を伸ばして見入っている男どもがたくさんいた。もちろん僕たちもその一部である。
街を歩いていても、たしかにときどきびっくりするぐらいの美人がいる。アフリカ一の美人国という評判はまんざらでたらめでもないと思う。エチオピアの建国伝説によると、紀元前に栄えたシバの女王とソロモン王との間にできたメネリクⅠ世がエチオピアの父祖とされている。そしてシバの女王は絶世の美女であったともいわれている。
シバの国はイエメンあたりにあったと推定されているから、アラブの血とブラックアフリカの血が混じりあったために、現在のような混血美人が生まれたという考え方もできるかもしれない。
参考までに、これまで60回ほど開かれているミス・ユニバース世界大会では、アフリカ勢は三度栄冠に輝いている。南アフリカ、ボツワナ、ナミビアの出身者だ。エチオピア出身者はまだいない。何度もいうようだが、美人の基準は人それぞれ。何はともあれ、旅人ならば真偽を確かめに、一度はエチオピアへ出向いてみたらどうだろうか。
写真・文  船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。写真家。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、いつのまにか写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。第9回さがみはら写真新人賞受賞。第25回林忠彦賞受賞。第16回さがみはら写真賞受賞。著書に「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から~狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵」「世界のともだち⑭南アフリカ共和国」「カミサマホトケサマ」「フィリピン残留日本人」など多数。元大分県立芸術文化短大非常勤講師。大分県杵築市在住。
公式ウェブサイト http://www.funaoosamu.com/

Africa Deep!! 46 自分が日本人であることをつくづく思い知らされた日

二十代のころアフリカを放浪していた僕は、一応の終着点を大陸の西の端であるセネガルに定めた。べつにどこでもよかったのだが、出発点がたまたまケニアのナイロビで、大陸の東側にあるインド洋に浮かぶラム島やザンジバル島にも滞在していたから、なんとなく東西横断という形になって少しは格好がつくかな、という程度のものだった。
そのときはセネガルの首都ダカールから飛行機でフランスに行くことに決めていた。友人がフランスのシャモニーで山岳ガイドをやっており、一緒にアルプスの山々を登ろうと決めていたからである。チケットを取った後、フライトまで少し時間があったので、どこでもいいから海辺の村でも訪ねてみることにした。適当なところでバスを降りると、「おや、日本人の友人でも訪ねて来たのかい?」と聞かれた。
アフリカには意外なほどたくさんの中国人が住み着いていてよく間違われるから、てっきりそうだと思ったら、たしかに日本人だという。そしてその人の家まで案内してくれた。はたして、家から顔を出した青年はまぎれもなく日本の方であった。名前は失念してしまったが、青年海外協力隊員として派遣されているという。その方は快く僕を招き入れると、ぜひ泊まって行きなさいというので、その申し出をありがたく頂戴することにした。
ところが……。その夜から高熱が出た。どうやらマラリアにやられたらしい。村には医者はいなかったから、旅行中持ち歩いていた治療薬を服用し、なんとか数日後には熱は下がった。しかし食欲がまったく出ない。セネガルではわりと魚を食べる人が多く、チェブジェンというピーナッツ油を使った魚料理が有名なのだが、それがまったく喉を通らない。
「どういうものが食べられそうですか? 醤油ならあるのだけど」と、その人も心配顔だ。そのとき、僕の目の前に浮かんだのは、焼きたてのサンマとご飯だった。脂ののったサンマにおろし大根をたっぷりかけて……。思わず生唾が出た。
「サンマかあ……」と、その人はつぶやきながら出て行った。しばらくして戻った彼が手にしていたのは、サンマ! ではなかったけども、アジに似た魚だった。さっそく彼はその魚を数匹焼いてくれた。醤油を垂らすと、俄然食欲がわいてきた。つくづく自分は日本人なのだな、と実感した瞬間だった。
写真・文  船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。写真家。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、いつのまにか写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。第9回さがみはら写真新人賞受賞。第25回林忠彦賞受賞。第16回さがみはら写真賞受賞。著書に「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から~狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵」「世界のともだち⑭南アフリカ共和国」「カミサマホトケサマ」「フィリピン残留日本人」など多数。元大分県立芸術文化短大非常勤講師。大分県杵築市在住。
公式ウェブサイト http://www.funaoosamu.com/

Africa Deep!! 45 アフリカのロバはいったい何を考えて生きているのだろうか?

アフリカの田舎を訪れたことがある方なら、「ドヒューン、ドヒューン……」という胸を衝くような甲高い動物の悲鳴にぎょっとされたことがきっと一度や二度はあるにちがいない。何事かと音のするほうを見やれば、そこにはたいていじっと地面を見つめたままのロバが所在なげに立っている。土壁が塗られた家のドアの前でやはりじっと頭を垂れて無表情のまま立っていることもある。
ロバという生き物を見て、「かわいい!」という人はあまりいない。その代わりに、全身から哀愁を漂わせ、なんだかじっと何かに耐えているように見えるため、「おい大丈夫かい?」と一言かけたくなる。「何か悲しいことがあったんだな」という気持ちにさせられる。あまり注視してはいけないような雰囲気がロバにはある。
ロバはアフリカ原産だそうだ。もともとは野生で静かに暮らしていたのだろうが、動きがあまり機敏ではないせいか、かなり古くから家畜として飼われていたようで、その歴史は五千年ともいわれている。ただ食用としてではなく、荷物や人を運搬する手段として用いられてきた。いまでもモロッコやスーダンなどの北部アフリカを中心に、少年が奥歯の隙間から「チッチッチッチ……」という音を鳴らしながらロバにまたがって小走りに行く姿をよく見かける。
粗食によく耐えて重い荷物を持つことができるため、田舎では重宝される。ただし性格は馬などに比べると従順ではないらしい。そのくせ重い荷物をくくりつけられてもじっと何かに耐えているように見えるので、ついいらいらして「いったいお前は何を考えて生きているんだよ」と文句のひとつもいってやりたくなる。人間がロバに対して何か悪いことをしているような気分にさせられる。
日本にも古事記が編纂された時代あたりにロバが輸入された歴史があるそうだが、結局は家畜としてもペットとしても根付かなかった。それはおそらくロバのあの哀しそうな雰囲気が原因ではないかと思う。日本人の繊細な感性が、その哀しそうな動物に重荷をくくりつけることを許さなかったのではないだろうか。僕はそう思う。その証拠に僕はアフリカでロバを見るたびにやはりどことなく憂鬱な気分にさせられるのだ。
写真・文  船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。写真家。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、いつのまにか写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。第9回さがみはら写真新人賞受賞。第25回林忠彦賞受賞。第16回さがみはら写真賞受賞。著書に「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から~狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵」「世界のともだち⑭南アフリカ共和国」「カミサマホトケサマ」「フィリピン残留日本人」など多数。元大分県立芸術文化短大非常勤講師。大分県杵築市在住。
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Africa Deep!! 44 アフリカを旅するのならぜひ満月の時期を狙って行くべきだ

僕はいま九州の人里離れた山奥に暮らしている。まわりの(一部の)人からは「ああ、あのテレビも冷蔵庫もない仙人のような暮らしをしている人ですね」と噂されたりもする。近所には家もないから、夜の帳が落ちるとすぐに真っ暗闇だ。シカやイノシシ、タヌキ、ウサギ、ヤマドリなどが家にいながらにして観察できるので、ここを日本のマサイマラと呼ぶ人もいる。アフリカニストとしてこれ以上光栄なことはない。夜は闇に包まれているので、ペルセウス座流星群などは自宅前にいながらにして見られるのが自慢だ。
ところが、ひと月にほぼ一度迎える満月の夜だけは様相を異にする。この日ばかりは、ふだんは夜には見えない立木もその葉っぱ一枚一枚までもくっきりわかるほどよく見えるのである。全体に青みがかった光景はどこまでも静かで妖艶だ。都会に住んでいるとネオンや街灯などの明かりにかき消されて月の明るさを感知するのは難しいが、本来の月明かりというものは意外なほど強い光線を放っているのである。
都会で生まれ育った僕はこれまで、月の明るさなどを意に介したことはほとんどなかったのだが、満月の夜という別世界への扉を開けてくれたのはやはりアフリカだった。ボツワナの名も知らない小さな村。マラウイ湖畔の砂浜。真夜中に登り始めたケニア山……。旅の途中で僕は満月の夜という特別な舞台を何度も味わうことになったのだ。
そのたびに感動したのは、月明かりでもちゃんと「影」ができることである。考えてみれば蛍光灯だって影ができるのだから、そんなに驚くべきことではないのかもしれない。が、それでも実際に体験する満月の影というものは、僕たちの暮らす世界がけっして平坦でのっぺりしたものではなく、いくつもの未知の層が重なり合ってできている豊穣なものであることを具体的なイメージとして膨らませるには十分すぎるほど神秘的だった。
いわゆる文明社会と呼ばれている僕たちの暮らす世界では、たとえばコンビニのあのまばゆいばかりの白色光に代表されるようになんでもかんでも明るい光源でモノを照らして見る癖がついてしまっているような気がする。だから祭りの夜に出される夜店では、ぼんやりと暖かいオレンジ色の裸電球の明かりにどこか安らぎと高揚を覚え、ふだんとは違った世界をそこに見て心惹かれるのではないだろうか。
アフリカを旅するのなら満月の日に合わせて、扉の向こう側にある世界をぜひのぞいてみてほしい。
写真・文  船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。写真家。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、いつのまにか写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。第9回さがみはら写真新人賞受賞。第25回林忠彦賞受賞。第16回さがみはら写真賞受賞。著書に「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から~狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵」「世界のともだち⑭南アフリカ共和国」「カミサマホトケサマ」「フィリピン残留日本人」など多数。元大分県立芸術文化短大非常勤講師。大分県杵築市在住。
公式ウェブサイト http://www.funaoosamu.com/

Africa Deep!! 43 アフリカの砂漠に打ち捨てられた砂上の楼閣

このところ「時間により色彩が刻々と変化する赤い砂漠」でツーリストに人気のナミビア。この国には他のアフリカにはない「地球の古い時代の記憶」というものがあちこちに露出しており、私もまた訪れたいと思っているところだ。
アフリカ大陸全体にさまざまな地下資源が埋蔵されているのは最近よく耳にするようになった。携帯電話をつくるのに欠かせない貴金属もある。しかし貴重な地下資源といったらやはりダイヤモンドの右に出るものはないだろう。その中でもナミビア産のダイヤモンドは品質が良いということで事情通にはよく知られている。
その理由として、ナミビア産のは「海洋ダイヤモンド」と呼ばれるもので、もともとは海中に存在していたためキズが少ないのだという。そしてその海洋ダイヤモンドはナミブ砂漠一帯に分布している。
金鉱と同様、富が埋もれる場所には人が一攫千金を夢見て集まるのはいずこも同じ。砂漠という本来は人間が住むことができない場所にも、かつて人が集った。日露戦争よりさらに時代をさかのぼる1908年、ナミビアが「ドイツ領南西ナミビア」と呼ばれていた植民地時代に砂漠の中でダイヤモンドが発見されると、大西洋岸の港町との間で鉄道が敷設され、たくさんのドイツ人が入植してきた。
ドイツ風の住宅や学校、病院、さらには発電所や劇場、カジノなども建てられ、コールマンスコップという街が忽然と姿を現したのである。当時アフリカで初めてのレントゲン機器が導入されるなど、コールマンスコップはダイヤモンドという小さな光り輝く石のおかげでアフリカでも最も裕福で先進的な街になった。
ところがこの砂漠の街は突然打ち捨てられた。その石が採れなくなったからである。戦後の1954年には完全に廃れた。街の最盛期はわずか20年ほどだった。栄枯盛衰。人間の欲望の象徴のようなこの砂上の楼閣は、いまはただ風が舞い砂に日々埋もれていくのみである。
写真・文  船尾 修さん

船尾修さん
1960年神戸生まれ。写真家。1984年に初めてアフリカを訪れて以来、多様な民族や文化に魅せられ放浪旅行を繰り返し、いつのまにか写真家となる。[地球と人間の関係性]をテーマに作品を発表し続けている。第9回さがみはら写真新人賞受賞。第25回林忠彦賞受賞。第16回さがみはら写真賞受賞。著書に「アフリカ 豊穣と混沌の大陸」「循環と共存の森から~狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵」「世界のともだち⑭南アフリカ共和国」「カミサマホトケサマ」「フィリピン残留日本人」など多数。元大分県立芸術文化短大非常勤講師。大分県杵築市在住。
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